2021年03月15日
Category 対談
仏教の教え・経典は「如是我聞」という言葉から始まる。「 このように私は聞きました」という釈尊の弟子の感動と、その聞き取った内容が伝えられてきた。
経典にはさまざまな形式・形態があるが、自分の人生の意味に頷いた「物語り」の形である。
超情報化社会の今、私たちは人間として生きる方向を見失っていないだろうか。だからこそあらためて「人間を支える事柄(言葉)」を聴衆と共に考えてみたい。
花園 和合さんのエッセー本『パパの子育て奮闘記』を読ませていただきました。お子さんとのやりとりが実に等身大の言葉で書かれていて、私も一人の父親として、とても共感しながら読ませていただきました。
今、高校の国語教師の傍ら、子どもたちに詩を教えられていますが、子どもに言葉を教えていく中で、気を付けていること、感じていることはありますか?
和合 子どもたちの吸収力、それを生きる力に変えていく力というのはすごい。新鮮な目覚めにあふれている。それをキャッチすることが大切です。詩のワークショップや授業で一番気を付けていることです。感性、人間の感じるこころというのは言葉からではない。言葉に魂があり、必ず実感、体験が関わっている。そこから言葉を子どもたちから引き出してあげると、すごく説得力のある言葉が現れてくる。それが大人たちのこころを揺さぶるということがあります。
花園 震災後にさまざまな活動をされる中で、言葉の力を感じたことはありますか?
和合 石巻の避難所で暮らしていた小学校5年生の男の子の詩がありまして、一番最後に「おじいちゃんを見つけてくれてありがとう。さよならすることができました」という言葉で終わっているんです。この詩を石巻や東北、宮城県の家族を亡くされた方々のこころの支えになっていました。子どもの言葉が、どれだけ大人のこころを励ますかということを、私はその詩から教えてもらったように思います。
花園 和合さんは震災後すぐに、ツイッターで詩を発表されていました。その内容が非常に話題を呼び、当時、被災者のやり場のない感情を表すものとして、一つのアイコンになっていました。その経緯についてお聞かせいただければと思います。
和合 震災のときに全て崩壊したような感覚になったのですが、立て続けにあった原発の爆発で決定的なものになりました。そして、妻と息子は妻の実家の山形に避難しましたが、すぐ近くの実家には父と母が残っていまして、私は残ったんです。
余震が続く中、すごく孤独を感じて、何に例えたらいいんだろうと思っているうちに、何かを書くという気持ちになりました。最初は近況報告で、津波の映像を見て、全国から私が巻き込まれていないか心配するメールへの返事のつもりでツイッターに書いたんです。
花園 ツイッターには投稿した日時がそのまま記されているので、その時の和合さんの揺れ動く気持ちや余震の様子がすごくリアルで、読むほどに当時の記憶も呼び覚まされていきました。印象的なフレーズが多い中で特にすごいなと思ったのが、余震を地下を走る馬に喩えておられる詩
です。震災で亡くなっていかれた方の怒りや悲しみが、無数の馬の群れになって地の下を駆け抜けていく。それを読んで、ああこれが〝詩 〞なんだなと思いました。形のない、受け入れ難い理不尽さや悲しみというものを辛うじて自分の物語として受け入れていけるのだろうと感じました。
和合 きちんと受け止めてお話ししてくださって、うれしく思います。私は、リアルタイムにツイートすることで、孤独の本質を知ったように思います。
3月11日から3週間、放射線量が高く外にも出られず、だんだんと追い詰められていった中で、私にとってのこころの支えが言葉だったんです。詩を書いていてよかったと思いました。言葉によって自分が励まされてきて、だんだん地震と戦ってやろうと、そういう積極的な気持ち
に変わって、言葉が生まれてきました。
花園 震災後の風景ですごく印象に残っているのは、節電の期間です。あの時、東京の夜景からネオンライトが4割くらい消えたのです。すると、逆に星がくっきり見えてきた。私たちが今まで享受してきた便利さが見えづらくしていたものが実はたくさんあるんじゃないかなということを、感じていました。和合 浜辺で避難を呼び掛け、津波にさらわれてしまった警察官の教え子の慰霊碑を作るため彼のご両親とお話をしてまいりました。お母さんが、今もまだ(遺体は)見つかっていないけどもう生まれ変わって警察官になるための勉強を始めているはず。うちの子は、そういう子ですと…。すごく胸を打たれました。
花園 大切な人を失った時、会えなくなってしまったけれども、その人が生きていた意味というものは失われずに私の中に生き続けている。むしろ会えなくなったからこそ聞こえてくる声というものが、実はたくさんあるのではないでしょうか。そういうことに耳を傾けていくことが供
養の大切な意味ではないかと思います。
和合 もうひとり思い出すのが、南三陸の防災庁舎で最後まで避難を呼び掛けた遠藤未希さんです。ニュースを知って、すぐに彼女の詩を書いたこともあり、『1万人の第九』という番組でその詩を朗読することになり、現地にお伺いしました。ところが、雨と風が強く、リハーサルは全く上手くいかず私は許されていないんだなと思った。しかし、本番で最後まで読み通すことができ、おこがましいですが、自分の気持ちが通じたのかなと。
花園 データや数値としての言葉ではなく、そこにある思いを一つの物語として受け取ることが実は大事であって、そのことを詩の世界は呼び返そうとしているのかなと感じるんですよね。
和合 そうですね。
花園 和合さんが子どもの頃、よくお祖父さんと読み親しんでいたという『般若心経』の中にも「色即是空空即是色」という言葉があります。「色」、つまり私たちが認識できる形あるものは、本来、形を超えたものの表現であると。詩の世界もまた私たちの中にある形なき思いを、一つの形として届ける。言葉というものはやはりそういうところがあると思いますね。
花園 震災以前と以後で変わった原発への思いについてお聞かせください。
和合 震災前は、原発が爆発するなんてほとんど考えていませんでした。浜通りの教員時代、東京電力の方は保護者会に来て「原子力発電所は絶対に安心です」と話されていました。保護者の方から「絶対というのはないのではないか」と問いかけにも「絶対に大丈夫です」と。そんな中で、われわれは育ってきた。その後に起きたさまざまな悲劇があっても、何の対処も考えていなかったということが実情だと思います。
浪江町の請戸港の避難所に東電の方が謝罪に来られた時も、皆さんは静かに受け止めていたそうです。しかし、最後に一人の青年が「私の母親は、あなたたち、日本に見殺しにされました。このことを私は一生忘れません」とおっしゃった。彼だけでなく、ぶつけようのない憤りを、われわれも持っている。やはり原子力発電所の災害であり、再稼働に対する底知れない恐怖と予感がそうさせるのだと、個人的に感じています。
花園 防護服を着て放射能の地域に行かれた時の気持ちを綴った「スクリーニング」という詩の中に、「言葉が防護服を着てしまった」という表現があって、それがすごく印象に残っております。あれはどういうお気持ちだったのでしょうか。
和合 福島の方々に20キロ圏内の町の様子を見せるという番組で、防護服を着て出させていただきました。無人になった町を見て、3月11 日の時間がそのままあると感じたのですが、上手く伝えられない…。防護服を脱いだ時に防護服を着たままでは真実を伝えることはできないと
直感しました。この経験を元にした詩集を作る時、最初、少し時間を置いて書いた詩を渡したところ、編集者さんが「これは直後の詩じゃないですね。(ちゃんと)詩になっていますから」「私はもっと直後に書いたものが欲しいんです」と言われました。そして、最初に渡した詩は、
防護服を着ているのかもしれないと思ったんです。
花園 話は変わりますが、福島では震災から数年経ってから一気に自殺率が上がっていると聞いています。放射能により帰るべき場所を失ったことが、被災者の中で新たな喪失感を生んでいるのでしょうか。そうした現状の中で居場所について、私たちはどう考えていけばいいのでしょ
うか?
和合 その反面、震災から6年が経ち、活気づいているところもたくさんありますし、まちづくりを一生懸命やっている若者もたくさんいます。
確かに、悲しい現実もあります。2014年に宮城県内の校長先生にアンケートを取ったところ、「今の児童生徒に震災の影響が見られる」「現在も、こころの闇を抱えている子どもがたくさんいる」と答えています。また、避難解除になって戻っても周りの人はいない。家は動物に荒らされて住めない。もう一度ふるさとを喪失するという話を伺っています。
今年の3月、福島の方が福島の方に手紙を書くというコンクールでは震災いじめについての内容も多く、子どもたちは、自分の問題として非常に重く受け止めています。
そういう現実の中でも、子どもたちはあたかも澄んだ川の流れにたくさんのアユが負けずに川上に向かって行くかのように言葉を紡いでいる。彼らの姿、感性にはすごく励まされる思いがあります。子どもたちの背中を見て、われわれももう一度、それでも新しく一歩を踏み出していか
なくちゃいけないという気持ちになる。震災後、大人たちが一番道に迷っているように見えたという、子どもの声も私は聞きました。子どもは、言葉にならない言葉でつかんでいる。あとは、子どもたちがずっと感じたことを、こころの中で育てていって、それをきちんと受け止めていくということで、だんだんと何かが変わっていくのではないかと思っているんですね。
昔は、みんな一つの方向に向かって泳がされていたように思います。しかし、目指していたものが陥落していったら方向転換するしかない。今まで一番後ろの後ろにいた人こそが、今度は一番先頭になるわけです。そんなふうに、はっきりと魚の群れの方向が変わるようにしたいと思っているんです。
花園 ありがとうございます。最後に和合さんの方から、今、ご自身が一番伝えたい詩を朗読していただけるということですので、どうかお聞きいただければと思います。
和合 先ほどお話をさせていただいた中の南三陸の防災庁舎で最後まで避難を呼び掛け残念ながら津波に巻き込まれていってしまった遠藤未希さんへの詩をお送りします。
南三陸。役場に勤めているある女性は、必死になって、マイクの前で、最後まで、避難を呼びかけた…。
南三陸。黒い波があらゆるものを奪っても、女性は必死になって、呼びかけた。
「高台へ、高台へ」…。
そして女性はそのまま帰らぬ人となった。
最後まで、最後まで、津波を知らせ続けた…。
女性のご両親は後日に、正に津波が押し寄せてきた時の記録映像を見ていた。
波は激しい勢いで、いま正に、南三陸の街を飲み込もうとしている…。
〈高台へ避難して下さい、高台へ避難して下さい〉。
美しい凛とした声を聞いて、お母さんはぽろぽろと泣いた。「まだ言っている、まだ言っている」…。
さらに黒い波。あらゆるものがなだれ込んできた。
〈高台へ避難して下さい、高台へ避難して下さい〉。
美しい凛とした声を聞いて、お母さんはぽろぽろと泣いた。「まだ言っている、まだ言っているよ」…。
あらゆるものがなだれ込む、黒い津波の映像は、私たちに何を学ばせたいのか。何を学ばなくてはいけないのか。
〈高台へ避難して下さい〉
騒然とした非常な南三陸の街で、美しい凛とした声は、何百人もの命を救った。
声の明かりを頼って、高台へ行こう、高台へ行こう、と…。
高台へ。
そこには緑が群れなす初夏の草原。何も求めない、ただ胸いっぱいに吸うことのできる空気と風が欲しい。
雲の切れ間…。
高台へ。
振り向けば、海原がまぶしい、初夏の太平洋。
何も求めない、ただ胸いっぱいにあふれてくる、幸せの涙が欲しい。
雲の切れ間…。
高台へ、ついその先の濁流の恐怖。
震えながら、人々は想う、凛とした声明かりがもっと、欲しい、
もっと心の高台へと誘って欲しい、
全てを飲み込む、怒りと悲しみの渦、南三陸。
〈高台へ〉
黙礼。
花園 ありがとうございます。本当に胸が詰まるような言葉の力というものを、まざまざと感じさせられるような詩ではないかなと思います。
私たちは日常の中で震災のことも忘れていく。そういう中で、そこにやはりかけがえのない一人ひとりの物語があったということを聞き続けていかれている和合さん。私たち宗教者も、そういう言葉を発していかなくてはいけないなということを、肝に銘じながら生きていきたいなと思っています。和合さん、本当にありがとうございます。
和合 ありがとうございました。またお話しさせてください。
和合 亮一 (わごう・りょういち)氏
1968年福島県福島市生まれ。詩人、国語教師。福島大学卒業。詩集『AFTER』で第4回中原中也賞。2011年3月11日の東日本大震災発生以降、福島の声を代弁するかたちで、ツイッターに詩を発表し大きな反響を呼ぶ。詩集のみならず、エッセイも多く手掛け、ラジオパーソナリティとしても活動する。主な著書『詩の礫』『詩ノ黙礼』『詩の邂逅』『私とあなたここに生まれて』『廃炉詩編』『木にたずねよ』『詩の寺子屋』など。共著に『往復書簡 悲しみが言葉をつむぐとき』(岩松英輔・和合亮一)。「未来の祀り ふくしま」発起人。
花園一実 (はなぞの・かずみ)氏
真宗大谷派 僧侶 真宗会館 日曜礼拝講師
1982年東京都生まれ。2004年日本大学芸術学部卒業。2010年大谷大学大学院博士後期課程満期退学。2010年から2013年まで親鸞仏教センター(東京都・文京区)に研究員として在籍。現在、真宗大谷派圓照寺副住職、真宗大谷派東京教区教学館研究員。主な論文に『頓成の真宗学』など多数。