対談
言葉×仏教 ②
人は、言葉によって救われもするが、言葉によって迷ってもいく。これを知るからこそ、仏教は言葉を大事にしてきた。
言葉は、書物の中だけでなく私の中にもあり、われわれの人生の物語を紡ぎ出している。
厳しい社会状況や自然災害が続く今、私たちを突き動かす大きな力を持つ「コトバ」「物語」について共に考えてみたい。
この抄録は2018年6月10日に真宗会館で開催された「サンガネット特別シンポジウム」の抜粋です。
言葉は語り継がれて 自分のもとへやってくる。
田村 著書の中で、作品を書くのは「死者との共同作業」という表現をとっていらっしゃいますが、自分だけでいるのではないという、そこがとても印象に残りました。
若松 言葉を語り継いでくれた人がいるから、私のところに言葉がやってきたわけです。私が書こうとしている「問い」も、私が発見したのではなくて、私のところまで持ってきた人から私が与えられたものです。人は自分に何が与えられているかに気づきさえすれば、与えてくれた人、あるいは死者であっても共に仕事ができるんだと思うんですよ。
田村 おっしゃっている死者というのは、特定の誰かではなく。
若松 そうですね、大きな意味での死者です。それが誰かということより「悲しみの経験」というものに近いかもしれません。もちろん個人の体験、自分のかけがえのない経験を深めていくことから普遍性を開くわけですが、死者とは何かを突きつめるより、ほかの人たちと共振・共鳴していくような。思想的にということではなく、お互いにふれ合っている感触のようなものを大事にして、自分が与えられたものを見出していくわけです。
過去の方々が大事にしてきた言葉、真理、道というのがあって、われわれは、それを見つけて歩んできた
田村 そこに関係すると思うのですが、例えば社会の教科書で「仏教をつくったのは誰ですか」という問題があれば、回答は100%お釈迦さまですよね。しかし、お釈迦さまには「私は新しいものをつくったのではない。私より以前、これまでもいろんな方々が歩いてきた道を発見しただけなんだ」という表現があります。オリジナルではなく、過去の方々が大事にしてきた言葉、真理、道というものを見つけて歩んできただけだと。その言葉に私は共感しましたが、今の先生のお話と大事なところでつながっていると感じます。
若松 そもそも「仏教」という言葉は新しい言葉ですよね。もともとは「仏道」で、「道」と「教」というのは違います。鈴木大拙が『仏教の大意』という本の中で、仏教というのは二つの大きな柱があるのだと言っています。ひとつは大智、大いなるものの叡知。そして大悲、大いなるものの悲しみの二つがあるんだと。それが門になっていて、そこに道があるんだと。「道」というものは、歩いてみないと分からないわけです。歩くのか教わるのか、私たちはどちらも選ぶことができる。
田村 大拙先生といえば、私も親鸞仏教センターで『英訳 教行信証』を読んでいます。それで論文を書こうと思うのですが、最初のうちはまったく書けないのです。大拙先生の文章自体は難解ではなく読めるのです。けれど、書こうとすると逃げていく。論文を書くということは生きている言葉を止めるわけですが、手でつかめない。私には初めての経験です。生きている言葉ということを、そこで痛感しました。

こころからこころへ 「コトバ」が届く。
若松 今、手でつかめないとおっしゃっていたのは、とてもいい例えで、手というの
はすなわち頭ですよね。大拙は別の本の中で、いのちで本を読むということを言っています。頭で読んではならないと。大拙の本そのものがそうですよね。われわれは、文字が読めるから、言葉で世界を知ろう、頭で理解しようとします。けれど、文字が読めても分からないこともある。それこそ一文字も言葉が分からない人々の「一文不通のともがら」こそが、本当のことを理解しているのではないかと。そう捉えるのが浄土真宗の伝統なのではないかと僕は思っています。
もちろん、そこから一歩一歩言葉を用いて進まなくてはいけない、とても大きな挑戦の中にいるんですよ、われわれは。言葉は、一度読めるようになると読めなかった状態には戻れません。だから言葉を深めることで、言葉にならぬものを感じ取らないといけない。
われわれに求められているのは、言葉をたくさん知ることではなくて、言葉を深め、言葉を超えていくこと。言語の先の、もうひとつの意味の世界に入っていくということですよね。それが『歎異抄』での、耳の底で聞くということなのかもしれません。
「言語」を超えたもう一つの「言葉」を、僕はカタカナで「コトバ」と書いています。この「コトバ」になっていないと、人はこころからこころへ何かを届けることはできません。言語のままだと頭から頭へ伝わるけれど、コトバをこころで受け止める
ことができるようになると、ここに私のこころがあるんだということが分かると思うんですよ。そうか、ここから出せばいいんだな。頭からではなくて、ここから出せばいいんだということが分かってくる。言葉が言葉でなくなるところまでやらなくては駄目だということだと思いますけどね。
たくさん知るのではなく 深く知る。確かに知る。
田村 読書でも、どんなにたくさん本を読んでいても、言葉本来が持っている意味に出合わないと、文字だけを読んでもそれは何も深まらないですね。文字の羅列が文学なのではなくて、奥底にあるものに触れることが重要ですね。
若松 そうですね。たくさん知れば豊かになるという量的な考え方は、お金をたくさん持っていれば豊かだという考え方と同じで、本質とは全然違う。知識も同様で、たくさん知れば豊かになれるというのは幻想です。けれどわれわれは誰もがたくさん知りたいんですよね。詳しく知りたい。人が知らないことを知りたいんです。これを長い思想史の中で、最もはっきり言ってくれたのが親鸞ですね。
田村 賢さと愚かさというところをどう考えるのかを、親鸞という人は教えてくれます。「賢く見せたいと言っても、おまえね、ご本尊の前で自分の顔を見てごらん」と。中身はどうなんだ。たくさん知るのではなくて、深く見ろ、確かに知ることを大事にしろと。そして、「自分にとってなくてはならないものって何だろう」という、大きな問いを与えてもらっているのだと思います。
人間は、真理から問われ人生から何かを期待されている存在。
若松 答えが明らかなのではなく、問いだけが明らかですよね。その問いを深めることが、人間の生きる使命だということですね。
真理は語られることを求めるのではなくて、人間の生涯をかけて体現されることのみを求めるという気がします。真理が私に何を求めているのか、いのちが私に何を求めているかと考えてみるべきだと思うんですね。そう問いかけることで、自分を超えることができる。
田村 私が好きな心理学者ヴィクトール・フランクルの言う「人生に何を期待できるかではなく、人生から何を期待されているか」というような表現と通じます。自分が問う、自分が見る存在ではなく、見られる側に置き換えてみると、新たな気づきが生まれます。
若松 例えばそれは、亡くなった人でも同じですよね。私が亡くなった人をどう感じるのかではなくて、亡き人たちにどう見られているのかを考えるということです。
こちらは生かされている側ですから、その立ち位置から大いなるもののことを語ろうとしても、語ろうとすればするほど、小さくなってしまうわけですよね。
田村 私も法話をすればするほど違ったものが伝わっていくのではないかと懸念することがあります。一方で、親鸞の本を読んでいると、例えば智慧を光で表したように、やはり形にならないものをどう形にして人々に届けるのかという苦慮のあとがある。仏教の表現、親鸞の表現には真理がどう人間と関係するのかなど、いわば「思想的格闘」がそこにあることを知ります。この足跡を辿ることが、真理に触れるいちばんの核なのかもしれません。