お寺の掲示板Vol.35|サンガコラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2024年11月13日

Category サンガコラム

お寺の掲示板Vol.35

あてにならぬことを あてにしているから ふらふらである

あてにならぬことを あてにしているから ふらふらである(曽我量深)

 自分の思いどおりになる人生と、そうでない人生。そのどちらかを選択するとしたら、おそらく誰もが自分の思いどおりになる人生を歩みたいと思うでしょう。ただ人生において、他にも大切なことがあるのでないか、別の道があるのではないか、そう仏教は問いかけています。

 私たちは日ごろ何をあてにして生きているのでしょうか。「あてにする」とは期待し頼りにすること。真っ先に浮かぶのは健康、次にお金や人ですね。はつらつとしている時は、自分自身をあてにして生きているのかもしれません。そう、たとえ無意識であったとしても、私たちはいつだって自分の思いどおりになる人生に期待しながら生きています。しかし、私たちは病気にもなり、やがて老いてもいきます。自分の思いどおりにならない事実に直面した時、こんなはずではなかったと愚痴をこぼし、空しさを抱えて「ふらふら」してしまうのも、また私たち人間の相(すがた)なのかもしれません。

 8年前、父が入院しました。胃に腫瘍が見つかり、精密検査の結果、それが悪性リンパ腫だとわかりました。告知を受け、父がふと漏らした一言がとても印象に残っています。

 

「もう南無阿弥陀仏しか出てこんね。親から貰った体だから最後まで大切にせんといかんね。」

 

 私たちは思いどおりになってもならなくても、この人生を生きていかなければなりません。それが紛れもない事実です。では、仏の教えを聞き学べば穏やかに優しくなれるのかといえば、残念ながらそうではありません。「南無阿弥陀仏」を称えたからといって病気が治るということでもないのです。

 それでも、仏の世界は「一切衆生(生きとし生けるもの)よ」と、そういう私たちに見捨てることなく、一人ひとりに呼びかけています。本当に頼むべきこともわからず、「ふらふら」しているこの私へ、すでに立つべき道があると呼びかけてくださっているのです。そのことを私に教えてくれたのは、あの時の父の一言でした。父もつらかったことでしょう。けれどもそれは、絶望から出た愚痴ではなかったのです。「どのような人生であったとしても、自らの一生をかけがえのないものとして生きていく。」自らの立つべき道が定まった父の決意を、あの時、確かに私は聞いたのです。

 自分の思いどおりの人生を歩みたい。これからも私はそう思い続けるでしょう。その思いがある限り、きっと「ふらふら」し続けるのです。仏教を学び続けるとは、そんな自分の在り方に目を向け、本当に頼るべきものとは何なのか、繰り返し問われ、繰り返し尋ねさせられていくことなのかもしれません。おかげさまで今も父は元気にしていますが、あの時の父の言葉はこれからも私への呼びかけとなって、いつまでも私を支え続けてくれることでしょう。

足利栄子 (あしかが しげこ)

福岡県 了德寺

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