お寺の掲示板Vol.31|サンガコラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2024年01月01日

Category サンガコラム

お寺の掲示板Vol.31

老いが、病いが、死が、
私の生を問いかけているのです

二階堂 行邦

 

 

 人間、転ばないと地面の硬さも歩き方の間違いもわかりません。死ぬほどの大病を患われて、健康や生きること、そして周囲の支えに、はじめて思いが至ったと教えてくださったご門徒さんがおられます。

 人は人生において、自分の力ではどうにもならない問題や、不条理に出会った時、自分の人生を問い直さざるを得なくなります。最愛の人との死別、自身の病気、挫折や失敗。それによる悲しみや苦悩、「生きることは私にとって何だったのか」と自問自答を繰り返すようになることがあります。

 私も今から15年前、突発性の難聴によって、目指していた音楽の道を断念せざるを得なくなったことがありました。

 無気力な生活を送っていた中、私が以前から尊敬していた二階堂行邦先生に、会わせて頂く機会がありました。その時、先生の言葉から、大好きであった音楽を、名誉や成功と引き換えにしていたことに気がつかされたのです。そのことを先生に申し上げたら、「よいことに気がつかれた」と意気消沈している私を誉めてくださいました。

 一所懸命に努力をして目標を達成していくという、いくら崇高と思われることであっても、目先の欲望や執着によって、その思いが跡形もなく変わってしまっていた。そういう私が見えてきました。それを中国の曇鸞大師(5〜6世紀)は、「顛倒の善果、よく梵行を破す」と仰います。「顚倒」とは、本来あるべきものが逆さまになることです。逆さになることによって、自分では善かれと思っていたことが、自分を押し通す結果にしかならず、いかに私たちが大事なものを失っていくのかが教えられるのです。私の場合、音楽を純粋に目指す思いが、成功や名誉に取って代わり、それによって、ストレスを感じ難聴になったのだと、初めて思い至ったことでした。

 同時に、この病気がなかったら、そのことに気がつかず、ずっと独りよがりで生きていたかもしれなかったことに、ゾっとしたのを覚えています。

 私たちの眼は外を向いているので、自分の姿は見ることができません。転んで初めて、地面の硬さや、歩き方、方向違いといった、自分の姿を気づかせてもらうのです。

 老いや病気や死という事実も同じです。不都合としか思えない事実から、自分の方向違いを教えられるのです。それを、浄土真宗の教えに生きた先人たちは、「如来様のお手回し」といって、自分自身への促し、問いかけとして受け止めてきました。そこにおいて、先人たちは、善いことも悪いことも、すべて如来様のお手の内にあるという、本当に安心できる慈悲の世界を仰ぎながら、思い通りにいかない人生を尽くしていかれたのです。そのことを、わたしたちは、お念仏を通して聞かさせていただくのです。合掌。

 

 

雲井 一久(くもい かずひさ)

神奈川県・真照寺

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