終活で問われていること|終活コラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2022年03月10日

Category 終活

終活で問われてくること

各専門分野の先生がそのテーマのポイントをわかりやすく解説する「終活コラム」です。
今回は仏教的視点を交えて「今、終活で問われていること」「今、終活で問わなければならないこと」を考えていきます。

さまざまに起こる想定外

 「終活」を始める時期は60歳頃からが多いと言われています。「定年退職をきっかけに」、「同級生の訃報を聞くようになった」など、理由は様々であると思います。

 ここで私が関わったAさんの「終活」について少し話したいと思います。

 Aさんは、長年勤めてきた会社を60歳で定年退職しました。退職をきっかけに老後の家族の生活のことを第一に心配し、それまで賃貸住宅に住んでいましたが、退職金で分譲マンションを購入しました。万が一、自分が先に死んでも妻と障がいのある一人娘が住居に困ることなく安心して生活できるようにとの思いからです。

 また、妻は年金が少ないため金銭面で困らないように生命保険についても、妻を受取人として追加加入しました。さらには自分の葬儀についても決めておいた方が良いと思い、葬儀会社へ生前相談にいき、そこで勧められた互助会にも加入しました。

 Aさんは、「これだけ今後のことを考えてやっておけば、老後の準備は安心でしょう」と親族などに話していたといいます。しかし、その数年後、Aさんにとって想定外な出来事が続きました。

 まず娘さんは、もともとの障がいに加えて病気が度重なり、自宅で生活することが難しくなり施設入所の決断をせざるを得ませんでした。その翌年、妻も悪性腫瘍が見つかります。かなり進行していたため、治療する段階にはなく、先だってお亡くなりになってしまいました。「こんなはずではなかったのに」と思いながらも、家族のためにと買ったマンションで独居生活をしていました。

 そしてその後Aさん自身も認知症の症状が出るようになりました。久しぶりにAさんを訪問した親族は、Aさんの荒れた家の中や暮らしぶりにとても驚きました。親族は、急いで市役所や地域包括支援センターへ連絡を取り介護の段取りを行いましたが、やはりそのマンションで一人暮らしをするには困難が多く、Aさん自身も施設入所することとなりました。施設の利用料は年金額で支払いが可能でしたが、結局、誰も住んでいない所有マンションの共益費や保険料などの支払いが、月々、数万円の赤字となり、そう多くはない本人の貯金を切り崩して生活することになります。そして、残高も徐々に少なくなり最終的には自宅マンションを売却することになりました。

 娘の施設入所、妻の死、自分の認知症、毎月の赤字などどれもAさんにとっては想定外でした。

 そして一昨年、Aさんは老衰で施設において90年間の生涯を終えました。葬儀は、親戚が希望する葬儀会館において営まれることになり、結局、Aさんが加入して準備していた互助会も利用せず解約となりました。

 Aさんが定年退職したのは約30年前のことです。「終活」という言葉はまだ無い時代に行った様々な手続きですが、今ならば、これらは正に「終活」であったと言えるでしょう。

 時間をかけてどんなにしっかりとそういった準備をしても想定外が起こる、間に合わない、そのような身と環境を私たちは生きているのだなあとしみじみ思います。

「終活」を始める理由

 「終活」をする理由には、「家族や周りの人を悩ませたり、迷惑をかけたくないから」や「自分の生涯の終わり方や死後に関することは自分で決めたいから」などが多いとも言われています。

 しかし、今まで迷惑をかけないで、人の世話にならないで生きてこられた方はいるでしょうか。また自分のことを自分で決めて、その通り歩んできた人生だったでしょうか。少なくとも生まれるときは私自身が決めて生まれてきた訳ではありません。

 介護の場面でよくあるのが「迷惑かけたくない」「自分のことは自分でするのだ」という思いが強い人こそ、介護の拒否をすることがあります。家族や周囲の人の支援を徹底的に拒むので、どんどん孤立して、かえって様々な人に益々迷惑をかけてしまう場合が多いのです。人の世話になりたくないという強い思いによって、自身の状態や、自分の置かれている状況がまったく見えていないのです。認知症の症状で病識がない(自分が認知症だということがわからない)という場合もありますが、やはり誰かしらの支援を受けなければ自身の生活が成り立たないという状況が見えておらず、またそれを受け入れられないのです。

 「迷惑かけないための〇〇」といった「終活」に関する本も書店に多く並ぶ一方で、「人間は迷惑をかけるものである。支え合って生きるものである」「自分で自分の人生を決めることができるというのは思い違いである」というような意見もよく聞くようになりました。

 それでは、そういった理由で始めた「終活」であるならば、しない方がよいのでしょうか。

私が知らされる「終活」

 「終活」をすると自分の好き嫌いや、どこまでも世間体を気にする自分の姿なども明らかになってくるでしょう。

 また「終活」でどうしても向き合わなくてはならない内容の中には、私たちの積み重ねてきた業(ごう)に関わる内容も多いのです。家族との関係性や、複雑な相続問題などはまさに業の問題といえるでしょう。いずれはと思って先送りにしてきた問題について、どういう形であれ、それに向き合ってみるということも、私たちにとっての大切な「終活」の営みといえるのではないかと思うのです。

 「終活」の中で、どこまでもいろいろなものに執着して生きている私自身の姿を知らされることもあると思います。また「迷惑かけたくない」という思いの中には、本当に家族のことを思うがための尽くしがたい感情というものもあるでしょう。

 財産への執着や、家族への強い気持ちまでも含めて、今一度、自分自身が深く知らされていくような「終活」のカタチも、大切にしたいと思うのです。

今、問われていること

 「終活」とは、「終わりの時」に向けて準備し、今をよりよく活きる活動であるなどと言われるのですが、皆さんは、大体どれくらい先を「終わり」の時と設定して「終活」を考えていますか。

 60歳だとしたら、あと少なくとも20年位は生きるだろうと思っている方が多いでしょうか。それとも5年後でしょうか。それぞれだと思いますが、大抵は、その終わりから逆算して、いろいろな準備をすすめていく場合もあるでしょう。

 蓮如上人の『御文』というお書き物の中に「まことにもって人間は、いずるいきはいるをまたぬならいなり」と、人間の命は、出る息、そして次に入る息を待たないで終わる存在であると言われています。まさにひと呼吸ひと呼吸、息をしているのが生きているということです。このひと呼吸のところに私たちの生もあり死もあるのでしょう。仏教ではそういう生命観、人間観をもって、いつどのように最期を迎えるかわからない私たちの身の事実をおさえています。

 高齢者の看取りの場に関わっていると、本当に「いずるいきはいるをまたずしておわる」という表現がその通りであると、とてもよく人間の最期を表したものであると強く感じます。ひと呼吸ひと呼吸のところに生があるなぁと、そしてそこに死があると、とても実感のこもった表現であると思います。

 また、浄土真宗でよく読まれる蓮如上人の「白骨の御文」と呼ばれる『御文』の中には「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」という言葉もあります。聞いたことがあるという方もいるのではないでしょうか。

 「朝」には血の通った紅色の顔をしているが、「夕べ」には亡くなって白骨になるかもしれない身であると、この身の無常をあらわしているのです。朝に「いってきます」といって家を出て行って、夕暮れ時に「ただいま」と帰ってくる保証はないのです。私たちの「ただいま」は、当たり前ではないことなのです。

 さて、私たちは、もし今日の「夕べ」に終わる身であるとするならば、いったいその時までに何ができるでしょうか。遺産相続のことを考えるでしょうか。葬儀社に連絡して自分の葬儀の段取りをするでしょうか。自分の遺影を探すでしょうか。不義理をした人への謝罪や、悔い改めることができないような問題については、どうしたら良いでしょうか。やり残したことを多く抱えたままで終わっていって大丈夫でしょうか。家族とはもう会えなくなるのでしょうか。死んだ後はどうなるのでしょうか。

 そのような急な人生の終わりであったとしても、この一度きりの人生に納得して命を終わっていけるでしょうか。

 「いずれそう思える日がくれば良いわ」「そのうちわかれば良いわ」という話しで良いのでしょうか。いつどのようにして終わるかわからない身を生きているのですから、現在、ただ今、そういったことが問われてくるのです。

 5年、10年先ならば何とかできるだろうと思っている問題かもしれませんが「夕べには白骨となれる身なり」となったらどうでしょうか。何をしても間に合わない。どうして良いかわからず、戸惑うばかりではないでしょうか。

 そういう身を生きている私たちに、親鸞聖人や蓮如上人という方々は、具体的に「お念仏申す」ことを勧められています。お念仏とは「南無阿弥陀仏」と申すことです。 

 本当は何もかも間に合わない無常の身を生きる私に、お念仏こそが究極の「終活」であると、親鸞聖人から語りかけられているのです。  

中島 航(なかじま・こう)

九州大谷短期大学福祉学科・仏教学科講師。

1975年生まれ、東京都出身。大谷大学大学院修士課程(真宗学)修了。社会福祉士、介護支援専門員、権利擁護センターぱあとなあ福岡会員、真宗大谷派教師。特別養護老人ホーム、養護老人ホームの主任相談員を経て現職へ。また現在は福祉相談事務所風航舎(ふうこうしゃ)を設立して成年後見人等の活動も行っている。専門分野は、家族支援を中心としたソーシャルワーク、看取り支援、グリーフケア(遺族支援)、高齢者の権利擁護、仏教的視点から考える高齢者福祉など。

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