2021年06月10日
Category サンガコラム
近藤 辰雄
社会人になっている息子が5歳のころのことです。お寺の法話会によく来られていた方が、「いやぁ、この間はお寺のボクに一本取られました」と言って話してくれました。その方がお寺をお訪ねくださり玄関で声をかけたところ、息子が出てきたので、「誰もいないの?」と尋ねると、息子が「ボクがいるよ」と答えたということでした。
目の前に子どもがいるのに、その存在を無視して「誰もいないの」ということは、つい言ってしまいそうです。ひとりの人として子どもや若者を見ないからか、半人前という言い方もあります。
それに関連して私にも忘れられないことがあります。お寺の子ども会で、お経の練習をしていたおり、あまり上手く読めないので、教える自分のまずさを棚にあげて、「今のは、60点くらいかな」と思わず言ってしまったのです。すると前の方にいた3人の子どもが「お寺でも、点数か!」と叫んだのです。本当にドキッとしました。
子どもたちは、学校ではいろんな面で点数が付けられます。もちろんそれは、教科の理解度や習熟度を測り、解らないことを置き去りにしないために必要なことではあるのですが、その点数のことを、家でも塾でも「点数、点数」と言われ、自分の存在全部が点数付けされているように感じているのでしょう。そしてお寺くらいでは「点数」は関係ないと思っていたら、私が「60点」と言ったので、思わず叫んだのです。
それは、私を、僕を、そのまま丸ごとを見ずに、全部点数で見て、比べたり評価したりするなという「いのち」の叫びであったような気がします。
書道家で詩人であった相田みつをさんに、「にんげんはねぇ 人から点数を つけられるために この世に生まれて きたのではないんだよ にんげんがさき 点数は後」という詩があります。
私は、どうしても仕事や学歴やこれまでの成果などで、その人を見てしまいます。それは自分なりに他人に点数を付けているのでしょう。自分もいろんな形で点数を付けられ、比べられたり、それで除かれたりして、今まで悲しい思いや悔しい思いをたくさんしてきたのに、それがなかなかやめられません。
そのことが、先の子どもたちの叫びや相田さんの詩に教えられ、はじめて問題になりました。どうすれば「人を人として見られるのか」、それは容易にわかりません。でも、人を丸ごと受け止めて人として見ていないことを、この法語のように指摘し問題として知らせてくれる教えを無視してしまうなら、私が人であることを失ってしまうのだと思っています。
(よつつじ あきら)
四衢 亮
岐阜県・不遠寺住職/真宗大谷派青少幼年センター研究員