2021年02月18日
Category インタビュー
奈良時代に中国から伝来した散楽という芸能が日本に定着し、なまって猿楽となった。室町時代、その猿楽から発展した音楽舞踏劇を「能」と呼び、喜劇的な対話劇を「狂言」と呼ぶようになった
和泉流の狂言には254の演目があり、日常世界に見え隠れする人間のさまざまな感情を滑稽な動きと会話で笑い飛ばしていく。狂言の懐の深さである。
狂言は、日本の芸能の原点とも言われますし、長い年月をかけて「笑いの芸術」とも言われるようになったんですね。武家が世の中を支配していた時代は、武士たる者は笑うものじゃない、歯を見せるなんてとんでもないと言われた。そのせいか、悲劇と喜劇を比べると、日本はどうしても喜劇が一段下がって見られることがあるんですね。
じゃあ、その喜劇的な狂言の芸術性が低いのか、演劇として未熟なのかというと、決してそんなことはない。人が生きていく上で、笑いはとても大切です。能と狂言は夫婦や兄弟のように言われますが、いずれも残ってきたというのは、やはり人の心をしっかりと映しているからだと思います。
狂言の世界は、神仏や精霊なども多く出てくるんです。山芋の精とか蝉の亡霊とか、自分たちの目に見えない存在も同じ土俵で描かれています。神仏もとても人間くさく描かれていたりする。昔の日本人は、自分たちだけで生きている世の中じゃないんだと思っていた。自分たちの目には見えないものも存在していて、そのおかげでこの世の中ができているということを狂言の演目にして、それを多くの人々に見せ、神仏に奉納していたのです。懐の深さを感じますね。
ウルトラマンというのは強いという意味ではないんです。少年のときに見ていたウルトラマンって、いつも絶対に同じ姿をしていた。スーツアクターと言われる中の人が変わっても、ウルトラマンはいつも同じ…