「あわい」の力|能楽師 安田登さん 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2023年02月16日

Category インタビュー

「あわい」の力

能楽師 安田 登さん

能(夢幻能)は、媒介者としてのワキが、異界の存在であるシテと出会い、現実世界と異界をつなぐ「あわい」の存在として、シテの思いを晴らすまでを描いている。「あわい」とは「媒介・あいだ」という意味。安田さんは、ワキ方として、そのワキの意味を広げて私たちに示す。

 「あわい」というのは、「合う、会う」と同根の言葉だという。自己と環境、自己と他者、時間と時間、二つのものが出会うあいだ……。

 日本は「あわい」がものすごく多くて、例えば縁側も外でもあり内でもある「あわいの空間」です。また軒下もそう。外の人も雨が降ったら雨宿りができる。英語に訳すのはほとんど不可能な言葉です。また、人は身体という「あわい」を通して外の世界とつながっています。つまり身体というのは自分にとってのワキであり、すべての人が「あわい」を生きているのです。

 私は、引きこもりやニートの人たちと「おくのほそ道」を歩くということをしています。芭蕉が歩いた道を、彼らと一緒に句を詠みながら歩くんです。ひとり、ずいぶん長い間、引きこもりをしていたという男性がいたんです。深川から歩き始め、目的地の日光にかかる前日から雨が降りだし、二日間、雨の中をすぶ濡れになりながら歩きました。ちょうど日光街道の杉並木を歩いたとき、杉の隙間から太陽の光が幾筋も射し込んできたのです。そのとき彼が句を詠みました。「旅の空 我が人生に 光射し」。それから彼の表情が変わりました。彼だけではない。多くの参加者に変化が起きました。雨が眠っていた身体感覚を呼び覚ましたのです。傘や雨具も役に立たないような雨に降られ、体中びしょ濡れになる。初めて「雨」というものを体験したのです。内面に閉じていた身体が、雨という自然に出会ったときに、その内面を思わず開いてしまうんですね。知らず知らずのうちに雨と一体化し、そしてそのあとに訪れた、晴れた空と澄んだ心が身体を媒介として一つになったのです。

 

 

 

 『論語』に「和して同ぜず」という言葉がある。和と同はどこが違うのか、そしてどこで和が成り立つのか。

 「同」というのは同じ音を一緒に出すということです。『論語』では、「礼の用は和を貴しと為す」と言います。和を成り立たせるために礼が必要なんだという考えです。ところが聖徳太子は「和をもって貴しとなす」とおっしゃっています。和という漢字の元(龢)は異なる音の笛を紐でつないだものです。意見の違う人が集まり、そこに調和を作る、それが和です。全員同じ意見にする必要がない。

能にはシテ、ワキ、そして大小の鼓や太鼓、そして笛がいます。これが全員違う流派なんです。一緒に稽古もしないし、話し合いもほとんどしない。演劇の人はみんなで稽古をしたり、議論をしたりしますが、能の場合、二日前に「申し合わせ」といって一度通すことはしますが、だからと言って皆の意見や解釈を合わせることはしない。まさに「和」ですし、「あわいの力」です。

 親鸞聖人にも「清風宝樹をふくときは いつつの音声いだしつつ 宮商和して自然なり」という和讃がありますね。宮と商は音階のことで、ドとレのような不協和音になる音です。ところが親鸞聖人は普通は和さないものを「和して」とおっしゃっている。そして「自然なり」と。面白いですね。

 

 

 

 

 

<Profile>

安田 登(ヤスダ・ノボル)

1956年、千葉県銚子市生まれ。大学時代に中国古代哲学を学び、20代前半に漢和辞典の執筆に携わる。25歳のとき能に出会い、鏑木岑男師に弟子入り。能楽師のワキ方として活躍するかたわら、論語と謡曲を中心とした寺子屋「遊学塾」を全国各地で開催。著書に『能―650年続いた仕掛けとは―』『異界を旅する能―ワキという存在―』『あわいの力』『日本人の身体』『三流のすすめ』など多数。

魔法のほね』定価:1,760円(税込)(亜紀書房)

 

写真・児玉成一

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