羅針盤としての歴史|サンガコラム「深慮遠望」 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2023年09月01日

Category サンガコラム

羅針盤としての歴史

深慮遠望VOL.17

 

 

 亡母の反物の中から丸められ黄ばんだ古新聞が出てきた。発行日はなんと「昭和六年五月廿六日」、今から92年前である。自分はまだ生まれていないし、その年の9月18日の柳条湖事件が満州事変の発端となったという日本史の知識しかない。あれから日本はいわゆる15年戦争に突入し、敗戦を経て現在に到った。この間の歴史からわれわれは何を学ぶことができるのだろう。

 そもそも歴史に学ぶということはどういうことか。中学に入ってすぐの中間テストで出題された日本史の問題を見て、歴史嫌いになった。教科書の文章がそのまま出され、所々が空白にされている箇所に正しい言葉を入れろというのである。歴史は学ぶものではなく、暗記するものであると思い知らされた。

 大学生になってから、コリングウッドの『歴史の観念』を読んでいて目を覚まされた。そこには、歴史とはわれわれが自分とはどのような者であるかを知るためのものであると書かれていた。自分が何者であるかとは自分が何をすることができるかであり、それを知るためには自分がこれまで何をしてきたかを知る以外に手はないというのである。これを中学のときに教えられていたら歴史嫌いにならなくてすんだのに。

 古新聞から今日までの歴史においても、われわれ人間はさまざまなことを行ってきた。善いことも悪いことも、優れたことも劣悪なことも、高貴なことも卑しいことも、慈悲深いことも残虐なことも。これらがすべてわれわれ人間という者の在り方を示している。そのような可能性の中から、なにを選び実現していくかはわれわれが自分で決めねばならない。そのとき、歴史は単なる暗記ものでなくなり、われわれの進むべき方向を示してくれる羅針盤となるはずである。

 

 

 

 

 

池上 哲司(大谷大学名誉教授)

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