親鸞フォーラム
格差社会×仏教-人間の闇と希望-(3)
2016 年6 月19 日(土)、JPタワーホール&カンファレンススクエア(東京都千代田区)を会場に「親鸞フォーラム―親鸞仏教が開く世界」が開催されました。
本抄録は「格差社会I×仏教-人間の闇と希望―」をテーマに行われたシンポジウムの内容です。
“自己責任”という錯覚
木越 先ほど湯浅さんの、いわゆる貧困と非貧困の世界は交わらないというお話が印象深いのです。私自身、格差や貧困という言葉は知っていても、その現実をほとんど知らないままに過ごしてきました。恥ずかしながら今回のテーマを受け、初めて注意しながら観察し考えるようになったのです。すると、例えば京都の小学校現場に就職していった卒業生などからでも、たくさんの子どもたちの間で貧困問題が起こっているのだという話が聞こえてくるようになりました。私自身、それまで貧困というものをそれほど深刻に考えることのない場所にいましたが、少し意識するだけで、途端に目に入ってくるようになる。それほど身近におおくの貧困問題があることに驚きも感じたことです。
身近で起こっている問題であるのに、恥ずかしながら、なぜか視野に入ってこない。まずはその理由について考えてみました。それは自分の中で、この問題は終わったものだと錯覚していることが、第一にはあったと思うのです。私は50歳を少し過ぎていますが、子どもの頃には周りで確かに貧困を目にし、感じる風景もありました。それが、いつの間にか見えなくなっていった。私の生活空間が変わっていったのか、あるいは社会が変わっていったのか。おそらく相互効果でしょう。加えて、特にバブルのあたりで1億総中流ということが言われた時に、あたかも貧困というものがもう日本には存在しないかのような錯覚を受けてしまって、それがずっと取れないままに現在まで来ているように思います。湯浅先生もおっしゃったように、一方の世界に居続けたからこそ気付けないという、大きな問題があります。
それともう一つの問題は、これも私の視点の欠落なのですが、貧困はその気になれば本人の努力で抜け出せると思っているという、恐ろしい傲慢さもあるような気がします。アルバイトをし、奨学金をもらうなどして、勉強してきちんと会社に就職すれば負の連鎖は止まるという思いが、私の中にあったのです。
身近にあっても見えていないということ、本人がその気になれば抜け出せると思っていること、この二つの意識の欠落が私の中にあって、社会的課題としての貧困が関心に上ってこない、そのようなことがあるようです。まさに闇です。私は、自分が冷たい人間かといえば、決してそうは思っていないわけです。浜先生のお話から言えば、それなりに人の痛みもわかるつもりでいるし、優しいつもりでもいます。しかし、格差や貧困の現実ということになると、全くわかっていない。これは私自身が抱える闇であり、またお二人がおっしゃっていたように、この問題が持っている恐ろしさでもあると思うのです。
今日の私は、仏教の立場、親鸞思想からの発言が役割になりますので、少しその視点から話をします。今日もテレビで朝から党首討論が行われていまして、「発展」や「経済成長」といった言葉が飛び交っていました。しかし仏教には、人類の進化、発展という明るい展望を、逆の意味で表現する「五濁増」という言葉があります。時代の経過とともに、社会の濁りや汚染が深まっていくという考え方です。「進化発展」や「経済成長」とは全く反対の歴史観であり人間観です。時が経つにつれて、人間のもっている悪質さが社会に蔓延し、世の中が怒りや欲望に支配され、争いが深まるという考え方です。今の格差や貧困問題も、この視点から捉えていかなければならないのだと思うのです。

もう一つ、親鸞が大事にした仏教の言葉に「宿業」というのがあります。「宿」はやどる、「業」は行為ですから、宿業とは、あらゆる行為が宿ることを意味します。これは、私たちの生存の在り方を表現した言葉です。仏教では、今ここに存在する「私」を、永遠の過去からのあらゆる環境、あらゆる生命の関連の中で創造されてあるものだとします。独立した個人の資質や能力によって自分があるのではなく、あらゆる関係性の上に、今の自分の資質や能力があるということです。自分とは、無限の過去からのあらゆる経験が、「わが身」という器に宿ったものだという考えですね。ここから考えると、自業自得ということは認められないことになります。すべて関係の中において自己が自己としてあるわけですから、自己とは、関係そのものでもあるわけです。『歎異抄』には、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(第十三章)とありますが、これは当時、漁業や狩猟など、他の命を奪うことを生業としなければならなかった民衆に向けられた親鸞の言葉です。殺生は仏教の本来からすれば、戒律を破ることになります。しかし親鸞は、そのような行為者も、それはそうなるべき宿業因縁のもよおしの中で成立している事態であって、個人の問題ではないのだというのです。
個人の性質や能力において、私という存在があるのではない。無限の宿業因縁の中で、そうなるべきものとして、今ここに自分が存在しているということです。中国の仏教者善導(613‒681)の言葉で言えば、才能や能力や貧富の差というものは「ただ縁に遇うに異なるをもって」そうなっているのだということです。人間には様々な差別があるようだけれども、それは出遇っている縁がそれぞれに異なっているに過ぎないのだというわけです。
人間が人間であるということは、互いに無関係ではいられない。
このようなことを背景として、仏教ではさらに「共業」と「不共業」という見方があります。不共業というのは、宿業が分断されているということです。わかりやすくいうと、例えば、ある男が破産したとして、困るのはその男だけです。たまたま隣にいた女性には関係しない。これが行為の結果が共有されない、不共業です。ところが、その隣にいる女性と男が結婚していた場合、男性が破産すると女性にも影響がでますね。これが共業です。業の結果が共有されるのです。目の前で起きている貧困の問題と、自分は関係ない。自業自得だ。もしくは頑張れば自分で立ちあがれるだろうと、このような考えは不共業です。業を共有しない考え方になります。しかし仏教では本来、人間の業は共有されるものであるわけです。今風の言葉でいうと、「つながり」と言ってもいいかもしれません。人間が人間であるということは、互いに無関係ではいられない。必ず業を共有しているということがあるのです。貧困問題が視野に入ってこないとは、そのような問題が根本にはあるのだと思います。
親鸞は京都から越後へと流罪になります。そして流罪後も関東の田舎に長く滞在し、漁師や商人、農民など、貴族社会とは全く違う生き方をしている人たちと交流されました。そのような人々について、親鸞は「りょうし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」(『唯信鈔文意』)と述べています。「われら」と言っています。これは業を共有しているのです。共業ということで言えば、例えばお金持ちと業を共有してもいいわけです。権力者と自分の立場を共有し、世間を渡ることもできたかもしれない。しかし親鸞は「いし・かわら・つぶて」のように生きる人々に寄り添い、「われら」とすることを選びました。そして、そのような人たちが黄金のように輝いて生きることのできる教えを仏教に見つけようとしたのです。
しかし、先ほど申しましたように、私自身そのような親鸞の思想を専門として研究していながら、格差や貧困など、社会的課題を担わされる人々の問題が関心にのぼってこなかったということがあります。なぜそのようなことが起こるのか。私自身の問題ですが、この点を反省的に考えなければならないと思っています。親鸞には、「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」(『歎異抄』第三章)という有名な言葉がありますね。悪人成仏の思想と呼ばれているものです。親鸞が「悪人」と言う場合、やはり直接的には、漁師や商いを営む「われら」を指します。商いは搾取、漁師は殺生ということで、仏教的には罪になります。そういう人々は被抑圧者、抑圧される側の人間です。もっと積極的に、親鸞が生活を共にした人々は被差別者であったとまでおっしゃる研究者もいます。そういう方々に向けられた悪人成仏の思想を、私たち現代の研究者は、単なる個人の自覚の問題にしてしまったということがあると思います。親鸞が語る「悪人」とは。私自身のことなのだと理解する、私のように罪深い悪人が、どう仏教の教えによって転ぜられていくか。これを探求したのが親鸞であったと、実に理知的で、近代理性に合うようなかたちで親鸞思想を解釈してきたという問題があると思うのです。それによって、実際に親鸞が立っていた思想的大地が見えなくなってしまったのではないかと思うのです。
現実の苦しみの中で、社会的な課題を担わされ、抑圧され、虐げられてきた人々を、実際に「われら」として親鸞は生きていたのです。共業ですね。そういう大地に、親鸞は立っていたのでしょう。しかし、知識者が理性的に親鸞思想を解釈していくとき、いつしかそういう本来の立ち位置というものが見失われてきたのではないかと思います。親鸞の思想がいつの間にか親鸞が生活した大地を離れ、有知識者の理性となってしまったのです。
ですから、特に私たち仏教者(真宗)は、今一度、親鸞の大地にかえって社会というものに接していかなければならない。親鸞が実際にどこに立って思索をしたのか、誰の傍にいたのかです。教えのうわべだけをすくうのではなく、そういう親鸞の立ち位置、親鸞の大切にしていた世界を共有していかなければ、いずれ私たちは親鸞そのものを見失ってしまうのではないかと思うのです。
続く>格差社会×仏教-人間の闇と希望-(4)
木越 康(きごし・やすし)
仏教者・大谷大学学長
1963 年アメリカ・カリフォルニア州生まれ。大谷大学大学院博士後期課程満期退学。私学研修福祉会国内研修終了(研修先:東京大学文学部宗教学科)。大谷大学教授、同大学副学長を経て、2016年4月より大谷大学学長。専攻は真宗学。主な著書に『ボランティアは親鸞の教えに反するのかー他力理解の相克』(法蔵館)、『正像末和讃を読む-悲泣にはじまる仏教-』(真宗大谷派大阪教区)、共著に『キリシタンが見た真宗』(東本願寺出版)など多数。