2023年11月01日
Category サンガコラム
信國 淳
〝どんないのちも生きられるいのちである〞と、信國淳先生がリルケの詩集から紹介された言葉です。この言葉を、私はずいぶんと受けとめることができずにいました。どうしても生きられない、それほどまでに追い詰められることが人間にはあるのではないか。それなのに「どんないのちも生きられる」と言われても本当だろうか、という疑問でした。
それは私自身が、生きていくことができないと思い詰めていたからでした。また、医療現場でそういう声を聞いてきたからでした。私は医師として神経難病に関わってきました。特に筋萎縮性側索硬化症(ALS)は重い病気で、全身が動かなくなります。ある患者さんは目だけしか動かなくなり、目の操作でなんとかパソコンに入力した文字が「しにたい」の4文字でした。生きられない、生きる意味を失った、という苦悩を目の当たりにしました。いや、生きてほしい。本当に生きる道はないのか、生きる意味のないいのちなどあるのか、そう問いつづけました。しかし一方で、私もその苦悩に飲み込まれそうになるのです。生きていけないということはあるだろう、と。
そんな葛藤の中で、たまたま仏教を学ぶ機会をいただきました。そこで出会った先生の言葉が、私の新たな出発点になっています。「苦しむという形で、私たちは、真実を求めている」と。驚きました。今まで、苦しみはただ無くすべきことでしかなかったのです。しかし、すべてが無意味だと決めていないからこそ苦悩がある、どう生きれば本当に自分が自分として生きることになるのか、と私の奥底で問い求めているからこそ苦しんでいるのだと。苦しみにも意味があるというのです。どうにも表せない閉ざされた苦悩を明るみに出してもらったようでした。
そして苦悩が出会うことがあると、あるALSの方の生き方に教えられました。癌の末期であっても最期までいのちを燃やし尽くしたいといって人生を全うした人物に出会い、自分も、病気が進行しても、その人のように生きたいと願われたのです。苦しむからこそ、自分より自分の苦悩を知る人の心に出会う。それは自分も気がつかなかった自分の心に出会うことでもあります。人生に苦しみ抜き、しかしその苦悩からの問いかけに応えつつ、人生の意味を創造しつづける道を歩んだ者を、仏教では仏陀といいます。仏陀に出会い、あなたのように生きたいと願った先人たちが無数にいるのです。
そんな願いに生きた人たちの姿を通して、「いのち、みな生きらるべし」という言葉にようやくうなずけました。しかしまた、本当にどんなときもそういえるのか、と身をもって確かめる旅が始まったともいえます。
※信國 淳(1904-1980) 真宗大谷派の教育機関である大谷専修学院の元学院長。
岸上 仁(きしがみ ひとし)
大阪府・受念寺