2019年02月06日

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本尊と仏壇と墓石

追憶の情いを超えて、仏に出会う

 今は亡き家族、友人、……への情い。その情いがあるからこそ私たちはお墓へと足を向けるのでしょう。 その懐かしみや偲ぶおもいを通し、そしてそれを超えて「南無阿弥陀仏」に出会う大切な場が浄土真宗のお墓です。
 ですから浄土真宗の墓石には「南無阿弥陀仏」「倶会一処」と刻まれるのです。

お経のこころ

 私たちの宗旨は浄土真宗です。宗祖は親鸞聖人です。その元は、お釈迦さまが説かれた経典にあります。その経典を『大無量寿経』と言います。親鸞聖人は『大無量寿経』に説かれている「南無阿弥陀仏」の教えに出遇い、人間として本当に大切な世界が説かれていることを深く受け止められました。そしてその教えか今日まで伝えられてきています。真宗の門徒は、その南無阿弥陀仏を「本尊」としていただいています。

 お寺の本堂には阿弥陀如来の木像が安置されています。皆さんのご家庭にある仏壇を、浄土真宗では「お内仏」と言いますが、その中心も阿弥陀如来のお姿を掛軸にしてご安置します。お墓の墓石には一般的に「先祖代々」や「何々家」と彫られていますが、浄土真宗の伝統は「南無阿弥陀仏」、あるいは「倶会一処」と彫ります。つまり、お寺も、お仏壇も、お墓も、そしてお葬儀の壇も、すべての中心は南無阿弥陀仏です。その南無阿弥陀仏が文字や絵像や木像の形にして伝えられてきているのです。この形を荘厳と言います。

 では、南無阿弥陀仏の言葉に込められた、その「本尊」とはどういう意味をもっているのでしょうか。仏教は、私たちに「本当に尊いこと」を伝えるために、表現されてきました。人生において、人間の存在において、何が本当に尊いことなのかを明らかにしています。それが『大無量寿経』に説き示されているのです。

“本当”に遇う

 私たちは人生を生きる中で、実は「本当に尊いこと」をどこかで求めながら生きているのです。けれどもなかなかそれを得ることができません。ともすれば、本当でないことを本当にし、尊くないことを尊いこととしているかもしれません。そういう私たちに、南無阿弥陀仏は「何を尊いこととして生きていますか」と問いかけてくる教えです。その教えが形になったのが荘厳です。

 本尊の前に座り合掌することは、形にふれることになります。つまり形は教えですから、合掌は「教えに遇う」ことを表しています。お内仏にお参りすることも「南無阿弥陀仏」の教えに遇うことを意味しています。またお墓にお参りすることも同じです。それはなぜか。私たちが、本当に尊いことに遇わなければならない存在だからです。

そのきっかけが、身近な方が亡くなったという事実です。私たちは死をとおして、生きることを考えさせられます。人生の意味や、何のために生きているのか、何を大事にしてきたのか、何を大事にして生きようとしているのかが、死という事実から大きく問われてくるのです。普段の生活では、勝ったとか、負けたとか、善いとか、悪いとか、得した、損したということばかりに目を向けがちです。しかし、そういう見方とは違う視点で「人生を生きる」ことを深く考える機縁を開くのが「死」という事実です。

その死の事実をとおして、南無阿弥陀仏の教えに遇うための仏事が、お通夜のお勤めであり、お葬儀であり、ご法事なのです。死が、残された私たちに思索を与えているのです。本当に尊い世界に出遇う大切なご縁を、亡くなっていかれた人たちが、私たちに開いてくださっているのです。

 私も5年前に兄を64歳で亡くしました。25年前には父が72歳で亡くなりました。去年は私の従兄弟の子どもが32歳で亡くなりました。私たちは、いつどうなっていくかわからない命を生きているということを、つくづく思い知らされました。と同時に、自分もいつかは死んでいく身だということ、そしてこの限られた命をどう生きていくかということを考えさせられました。この私はどう生きてきたのか、どう生きていくのか。そして亡くなった人たちは、どう生きてきたのか。亡くなった人たちの死にゆくその姿に接しながら、その人生にふれ、人間の生きてきた歴史を肌で感じるのです。そのとき改めて私の人生に問いが与えられるのです。

 そのことを私たちに示している世界が経典です。浄土真宗は、親鸞聖人がその経典の精神を基として書かれた『正信偈』でお葬儀等のお勤めをいたします。そこに本当に尊い世界が示され、南無阿弥陀仏のこころが表現されているのです。

量り知れないいのちと尊さ

 「阿弥陀」とは「無量寿」という意味です。「量り知れないいのち」と書きます。一人ひとりが量り知れないいのちを生きている。一人ひとりが大切ないのちを生きている。亡くなった方も大切ないのちを生きてきた。私たちもまた大切ないのちを生きている。だから人間は尊ばれ、人生の重さがある。だからこそ互いに尊重されていかなければならない。どんな人生も無駄な人生はありません。苦しくても悲しくても、そこに生きたということは、量り知れない尊さと重さがあるのです。

これが親鸞聖人が出遇っていかれた南無阿弥陀仏の世界です。そしてそれが浄土真宗という教えとして私たちに届けられているのです。その教えをいただくのがお寺です。お寺は、ご本尊を中心に教えが説かれ、私たちの人生を開いてくる場所です。

 お墓もその教えに遇う場所です。先ほど申しましたように「倶会一処」と書いてある場合があります。これは、“皆んな、同じところに出遇っていく”ということを表しているのです。死んでから皆んなと一緒のところに出遇っていくとも読めますが、実は、私たちの存在は、皆んな同じいのちを生きている。存在の同じ尊さと重さです。そういう意味での「倶会一処」です。

 つまり、「南無阿弥陀仏」という名号(文字)の本尊、や「阿弥陀如来」のお姿の本尊に、私たちが本当に尊い世界に目を開いて欲しいという願いが表されているのです。そこに大きな意味があります。お葬儀は本当に尊い世界にふれていくことが願われています。どんな仏事であっても、浄土真宗のお勤めは、必ず中央に阿弥陀如来のお姿です。南無阿弥陀仏の名号です。葬儀式場においても、それぞれのお寺のご住職が、阿弥陀如来のお姿の掛軸や三つ折り本尊や南無阿弥陀仏のお名号をお持ちいただいて、本尊を安置してお勤めされると思います。それがなければ真宗の儀式ではありませんし、真宗のお寺でもありません。仏教のこころが表された本尊を中心に据えて営まれてこその“仏事”なのです。

真宗の伝統

 浄土真宗の門徒は、お仏壇をお内仏と言い、ご家庭に本尊をお迎えし、教えに遇う場所を家の中心に設けてきました。毎日の生活の中で、朝夕のお勤めをしながら阿弥陀仏や浄土の荘厳を肌で感じ、教えに触れ、自分の生き方をそこに見つめ直していくという生活です。つまり、亡き方たちが開いてくださった場を、自分の生き方を振り返る世界としていただき続けてきたのです。

私たちが本当に大切なことに出遇っていくならば、死んで良い世界に行くとか行かないという死後の不安から解放されます。一人ひとりがこの人生の中で、本当に尊い世界に出遇わせていただいたときに、これでここを生きて行ける、今を尽くして生きて行ける世界が開かれてくるのです。その世界が浄土であり、南無阿弥陀仏のこころです。

海 法龍(かい・ほうりゅう) 

真宗大谷派首都圏教化推進本部本部員。神奈川県横須賀市・長願寺住職。

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