2019年02月07日

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通夜・葬儀・法事は誰のために勤めるのか。

亡き人からのメッセージ

“今”“そこに”生きておられた方との別れの時、それは同時に亡き方との出会いの時でもあります。
亡き方の頬にふれ、その手にふれる。その冷たさこそが、いのちそのものの事実を教えてくれます。
そのいのちの事実を通して、“今”“ここに”生きてあることのいのちのかかえる尊さとその悲しみを確める場。それが“仏教の葬儀式”です。

人生を終えるにあたって最期の一言は何だろう

 亡き方は、どのような思い、言葉をもって、いのちを終えていかれたのでしょうか。また、私たち一人ひとりは、どのような言葉で、いのちを終えていきたいのでしょうか。もう、亡き方にお聞きできないので証明などできませんが、念仏者は「ナムアミダブツ(南無阿弥陀仏)」という言葉とともに、いのちを終えていかれたに違いないと考えてきたと思うです。

 浄土真宗の葬儀は、亡き方を私たち人間の“情”だけでお送りするわけではありません。

 もちろん、“情”がなければ葬儀ということも行えません。情は大切なものではあります。しかし私たちは、亡き方を「ほとけ(仏)」とも呼んできました。それは、亡き方が自らの“いのちを終える”という姿を見せて、私たちに無言のメッセージを発してくれていると受け止めてきたからでしょう。その、亡き方からの「仏」としてのメッセージに出会っていく、それが私たち浄土真宗の葬儀、また仏事ということの大きな意味なのです。

はかることを超えているいのち

「南無阿弥陀仏」の「南無」というのは、頭が下がるということ。「阿弥陀」は無量、はかることがないということです。いのちそのものの事実は、はかることを超えています。私が今のこの私になってきた背景には、親があり、おじいさん、おばあさんがあり、その前からずっと続いてきた私のいのちの歴史があります。それは私の思いをはるかに超えて、いのちの事実としてあるのです。

 しかし私たちの日常の思いは、はかることばかりです。大きさや高さ、それから速さで数としてはか(量)り、計算し計画をたててはか(計)る。そして自分に都合よく人生を生きていこうと、はか(図)りごとをします。

 そして悲しいかな、はかることの中にしか、生きていけないという面もこの私の現実としてあります。上下、優劣、損得、生と死。そして、このいのちそのものまでもはかろうという思いが湧いてまいります。

 しかし、いのちそのものは、はかることを超えている。子どもを授かった親も、また生まれてきた子どもも、それぞれ自分の都合を超え、選ぶことを超えている。時代も国も、そして民族も。親も子も選ぶことを超えて、いのちそのものは今、ここにこうして私が生きている。それが私のいのちの事実です。

 ですから「南無阿弥陀仏」という言葉は、いつもはかりごとをしている私に「阿弥陀」に「南無」せよと。いのちの事実は、はかることを超えているんだ。その事実に「南無」しなさいという促しです。「いのちの事実に立ち返りなさい」、「事実を事実として受け止めなさい」。そして、「本当にそうだなぁ」と、事実へ頭が下がったうなずきこそがまた「南無」という世界なのでしょう。

「不安は、いのちそのものが、確かなものを求めているうめき」

 宮城顗という先生の言葉です。この私の人生が、自分の思いの内に収まっていれば問題はないのでしょう。しかし現実には、思いとは裏腹のことが日々起こってきます。すると途端に、不安、苦悩が湧いてくる。その象徴が、老い、病み、死し、そして愛しき人との別れです。事の大小はあっても、この苦悩や不安の中にあるのが、私たちの生きている日々であります。確かな安心を求めているからこそ、本当の安心とはいえない今に、不安が起こってくるのです。しかしその不安こそが、私の中に確かなものを求める“いのちの要求”なのでしょう。

 では本当の意味での安心というのは、私たちにとって、一体どういうものなのでしょう。

 「四苦八苦」という言葉があります。四苦は「生・老・病・死」の苦しみのことです。そしてその後のもう四つの苦しみの5番目に「愛別離苦」が出てきます。愛しき人との別れです。能力や権力、財力のあるなしとは無関係に、全ての人に必ず起こってくる事柄です。お釈迦さま自身も、この苦悩に向き合われ出家をされます。しかしこれはお釈迦さまだけの問題では留まらない、私たち一人ひとりが抱えている事柄でもあります。

 本当の安心とは、この私がこの苦悩を抱えつつも、この世に生を受け、この世を生き、そして死していくことのできる、人生を見る確かな眼(まなこ)なのでしょう。これは、人間の日常の、人間の思いのこころではでてまいりません。その眼を「南無阿弥陀仏」と指し示してくださっているのです。

全部丸ごと、私の人生そのもの

 亡き方は、その人生を終えるまで、いろいろなことに出会ってこられたに違いありません。嬉しいことも楽しいこともきっと沢山あっと思います。そして、うれしいこと、楽しいことを共に作ってくださった方々に、きっと「ありがとう。皆さまのおかげで本当に喜びの多い人生でした」とおっしゃられたのではないでしょうか。

 しかしその一方で、苦しく、悲しく、辛い出来事にも出会わざるを得なかったはずです。生きてあるときには、なかなかそれを受け止められなかったけれど、その辛い出来事の中で、いろいろと思い考えさせられ、そして今のこの私になった。「本当にいろいろと勉強させてもらいました。ありがとう」と言って、命を終えていかれたのではないか。

 つまり、自身の人生の出来事、プラスの面もマイナスの面も、全部丸ごと、「これが私の人生そのものです」と終えていかれたに違いない、と。

 それは、自らの人生に手を合わせて命を終えていくことなのでしょう。それが「南無阿弥陀仏」という言葉となってあるのでしょう。

離別の涙とともに開かれる「南無阿弥陀仏」の葬儀

 亡くなられた方は「死」苦に出会い、同時に、残った私たちは「愛別離」苦の涙を流すわけです。

 頭では、いつかは命を終えていくということをお互いに充分に知っています。けれども、そのことをあらめて、近しい方、大切な方の死を通して、これが私たちの生きているいのちの事実だということに、涙とともに頷かざるを得ない。これが、離別の涙とともに開かれる「南無阿弥陀仏」の葬儀なのです。

 愛しき人との別れの悲しみとともに知らされる、はかることを超えたいのちの事実。その事実の前に、静かに手を合わせ、頭が下がる。「南無阿弥陀仏」の一言をもっていのちを終えていくとは、人生における出来事全てが、この私のこのいのちの尊い事実であったことへの頷き。この頷きが「南無」でありましょう。

 そしてその頷きを、遺された私たちに教えてくださる大切な縁が、葬儀という場なのでなはいかと思うのです。

 その時間を、通夜・葬儀、そして還骨、初七日、納骨、そしてご法事と、こういう時間を通しながら、一人ひとりが亡き方の、仏としてのメッセージを静かに聞いていこうということが、浄土真宗の仏事の一番深い願いです。

 葬儀という場が、そのような場として営まれることになるように、共にその場を作っていきたいと思っております。

二階堂行壽(にかいどう・ゆきとし)

真宗大谷派首都圏教化推進本部本部員。東京都新宿区・専福寺住職

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