AI×ゴリラ×仏教―人間とは何か(3) | 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2019年05月14日

Category 親鸞フォーラム

AI×ゴリラ×仏教―人間とは何か(3)

パネリスト山極 壽一 氏、井上 智洋 氏、木越 康 氏、 コーディネーター藤原 正寿 氏

2018 年4 月21 日(土)、丸ビルホール&コンファレンススクエア(東京都千代田区)を会場に「親鸞フォーラム―親鸞仏教が開く世界」が開催されました。
本抄録は「AI× ゴリラ× 仏教-人間とは何か―」をテーマに行われたシンポジウムの内容です。

欲望に基づいて生存の快楽を得るものは解脱からは遠い(『スッタニパータ』)

木越 いま井上さんからお話がありましたが、労働から人間が開放されたとき、そこで人々が仏教、あるいは宗教というものに向かうのかといえば、なかなかそう上手くはいかないだろうと私は思っています。というのは現に今、様々な問題の中で人々が苦しみ悩んでいる中で、仏教がその悩みに応えきれているのか、あるいは求められているのかといえば、必ずしもそうではないからです。将来AIが発展していって、様々なゆとりが出たところで、人間は仏教に向くことはないと思っています。

 『スッタニパータ』という、古い仏陀の言葉を残したものに「欲望に基づいて生存の快楽を得るものは解脱からは遠い」とあります。ですから、もし井上さんが先ほど予測したような未来があって、そこに人間の安楽が訪れても、実は悟りからすごく遠いところに人間が行ってしまっていると仏教的には言わざるを得ないことになります。ですから仏教が何かしらの意味を未来に果たし得るということを考えるならば、それは人類の発展の延長線上に仏教が花開くということではなく、人類が行き詰まって大きな転換が必要となった時ではないかと思うのです。

 AIのお話を聞いたときに、仏教の立場からはじめに思い浮かんだのが、唯識という考え方でした。仏教では人間の生存のあり方を「ただ識のみ」、唯識という思想で説明します。識によって我々の生存がある。もっと言えば「私」というものは識でしかないという考え方です…

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