2020年03月24日
Category 法話終活
私がお預かりしているお寺で、昨年「お盆法要」をお勤めしました。作家の三浦綾子さんの言葉を添えて、ご門徒、有縁の方々にご案内をさせていただきました。
一生を終えて後に残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。 『続氷点』三浦綾子
私たちの心の中には、その人の生前の姿や思い出が残っています。亡くなったらそれで終わりではありません。作家の三浦綾子さんはこの小説の中で、生きている時に集めたものは残らないと書かれております。集めたものとは、「物」ということでしょう。お金、財産、家、土地、車など、生きるために必要な物を集めながら私たちは生きているのですが、それは死んだら残らない、本当の意味では残らないと。
そして、「与えたもの」が残るとおっしゃいます。それは、上から下へ与えてやったという意味ではなく、亡くなった方の人生が、生きてきた事実が、私たちの中に「残る」のでしょう。それを「与えたもの」と表現されているのです。亡くなっていった人たちの人生そのものが、私たちに結果として「与えたもの」があるのです。どう生きたのか、何を大切にして生きていったのか、という問いが与えられると、そのことが私たちの中に残っていくのです。
愛情が与えられると、私たちの中には温かさと明るさが残る。支配と抑圧と服従が与えられると、憎しみと恨みが残る。虐待が与えられると、心に傷が残る。死が与えられると、限られた人生をどう生きていくのかという問いが残る、ということでしょう。
お盆の行事をとおして、亡くなっていった人たちのいのちの重みを確かめつつ、生きることの本当の意味を、親鸞聖人が出遇(あ)っていったお釈迦さまの「南無阿弥陀仏」の経典の精神に、お荘厳(しょうごん/お飾り)とお勤めとご法話をとおして、皆さんとご一緒に尋ねて参りたいと思います。万障お繰り合わせの上、ぜひご参詣ください。お待ちしております。
(真宗大谷派長願寺 二〇一九年「お盆法要」の案内より)
「お盆の行事をとおして」を、「葬儀のお勤めをとおして」に置き換えることができます。つまり、「葬儀のお勤めをとおして、亡くなっていった人たちのいのちの重みを確かめつつ、生きることの本当の意味を、親鸞聖人が出遇っていったお釈迦さまの「南無阿弥陀仏」の経典の精神に、お荘厳(お飾り)とお勤めとご法話をとおして、皆さんとご一緒に尋ねて参りたいと思います」ということが、親鸞聖人のおこころにかなった葬儀なのでしょう。
浄土真宗の仏事は、必ずご本尊である阿弥陀さまを中心にお勤めがなされます。ご本尊(木像)は「南無阿弥陀仏」という言葉が形になった姿です。「南無阿弥陀仏」を親鸞聖人は『正信偈』の中で、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と表現されています。この二行に「南無阿弥陀仏」の意味があります。
そして、「南無阿弥陀仏」のおこころを形にしてあるのが、荘厳(お飾り)です。ですから、この形は教えを表しています。お釈迦さまの覚りを表しているのです。ということは、経典のこころを形にしてあるのです。その形をもとにして通夜・葬儀が勤められます。人間の好み、考え方、思いではありません。私たちの思いを超えて、この形をとおしてお勤めをしてきた仏事の伝統、歴史があるのです。
南無阿弥陀仏は「無量寿」という意味です。「寿」は「いのち」。別の言い方をすれば「存在」ということでしょう。つまり、私たち一人ひとりの「いのち」や「存在」を「無量寿」や「阿弥陀」と表現されているのです。もう一つには「無量光」とも言い、「光」として表現されます。「光」ですから輝きです。
つまり、「いのち」や「存在」は「光」なのです。一人ひとりはどんな人生であっても輝いた存在、ということです。そういうことを、葬儀あるいは日ごろの仏事をとおして、確かめ合ってきたのが真宗門徒なのです。
ではなぜ確かめ合わなければならなかったのか。それは私たちが、自分の考え方で善いか悪いかを決めて生きているからです。善いものは受け入れるし、嫌なものは排除するといった価値観が前提になっています。自分の思いに合わないものは排除してしまう。自分自身でさえも、自分で自分を排除する。つまり劣等感です。反対に、うまくいけば優越感に浸り、周りを見下していく。そして自分の存在も、他者の存在も傷つけていく。死者に対しても、自分たちの都合が悪ければ、亡くなった人が祟っているとか障っているとして、亡くなった人の存在さえも傷つけてしまいます。それが私たちの迷いの姿としてあります。
そういう私たちの姿に、気づかされていくために教えがあり、仏事があり、浄土真宗のお寺があるのです。死は私たちにとって一番都合の悪い出来事です。だから都合の悪いことを嫌悪し排除する心が湧き起こってくるのです。
つまり身近な方の死をとおして、私のものの見方や考え方が、迷いそのものであるということを尋ねていくために、ご本尊を中心として、経典や『正信偈』で葬儀が勤められてきたのです。
親鸞聖人は「父母の孝養(きょうよう)のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」と『歎異抄』第五章でおっしゃっています。「父母の孝養」は、父母の供養ということです。死者の供養、つまり亡き人の冥福を祈るために一度も念仏を申したことはないということです。この言葉はどういう意味なのでしょうか。
親鸞聖人は「孝養」と違う表現を別の書物では「養育」という言葉を使われます。養う、育てると書きますが、意味はその逆で、養われていく、育てられていく、死者の人生、死という事実をとおして経典の言葉から私たちが養われ、育てられていくという意味です。これが私たちに伝えてくださった浄土真宗の供養のこころなのです。
最近、家族葬という葬儀の形態が多くなり、家庭も個人も孤立し分断されていく時代になってきました。孤立・分断とは社会のつながりやお互いの関係が希薄になっていくことです。それが一因となって、京都アニメ―ション放火殺人事件、相模原障害者施設殺傷事件や虐待の事件等、さまざまな事件が起こっているのではないでしょうか。
現代の葬儀に象徴されているのは、単に簡素化が進んでいるということだけではなく、孤立や分断が人間の関係性を切り、そして「いのち」や「存在」の尊さまでも見えにくくさせているのです。それが時代社会の問題を引き起こしているのでしょう。避けてとおれない私たちの普遍的な課題です。その課題に応えていく世界が「葬儀を勤める」という儀式にあるのです。つまり「誰のために葬儀を勤めるのか」、それは死者のために、生者のために、人間のために、私のために「葬儀を勤める」のです。
※『正信偈(しょうしんげ)』
親鸞聖人が主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の中に綴られた偈文。浄土真宗の門徒は、毎朝夕にお内仏(お仏壇)の前でお勤めすることを大切にしてきた。
海 法龍(かい・ほうりゅう)
1957(昭和32)年、熊本県天草市生まれ。大谷大学真宗学科卒業。大谷専修学院卒業。現在、真宗大谷派長願寺住職(神奈川県)。真宗大谷派首都圏教化推進本部員。著書に『報恩の生活』、共著に『僧侶31人のぽけっと法話集』(共に東本願寺出版発行)など。