2021年10月28日
Category 終活
仏教的視点からあらためて終活のことを考えてみます。「自分のことは自分で決めたい」「家族にはできるだけ迷惑をかけたくない」という思いで終活をしてきた方、もしくはこれから終活を始めようという方に向けて、特に福祉や介護のことを取り上げながら、知っておくべきことを尋ねていきます。
※このコラムは2021年5月30日に開催された大人の寺子屋ウェビナー「終活で本当に大事な話~仏教×福祉・介護編~」の抄録です。
私は以前、関西にある高齢者の福祉施設に勤めておりました。関西ではとても歴史が古く大正時代からある施設です。創立の由来が仏教系である法人であったため、当時より必ず施設には僧侶が常駐しており、特に施設の園長や相談員などは、雇用する際にはなるべく僧侶の資格がある人をという向きがあったそうです。そして、本人や身内の経済的な問題でお通夜やお葬式が難しい入居者には常駐の僧侶が法務をします。もちろん日々の勤行(毎朝)も法衣を着て行います。私はそういう施設で相談員として11年間勤務していました。
さて今回は、「終活において大切なこと」という大きな題名を掲げました。すでに「終活」を取り上げた本は世に多く出ています。その中で「本当の終活とはなんだ」というような題名のものもたくさんあります。しかし、今回、これから話をしていく内容は、どういうものが「『本当の』終活」である、ということを話題にするわけではありません。「終活」を考える上で大切な視点、とりわけ、私がそのことを考える上で重要だと思う視点を主に、お話をさせていただきます。これから終活を考えていこうとされる方、考え始めている方、さらには、すでに終活を始められているという方もいるでしょう。ここで改めて立ち止まって考えを巡らせる機会になれば幸いです。
「終活」というと、どうしても金銭的、財産などの相続が連想されますが、私の立場からは「福祉」や「介護」、そして「仏教」という視点も交えてお話します。実は「仏教においては、終活をする、終活という視点はおかしい」といった声もあります。『終活なんておやめなさい』というような本を書かれている方もおられます。また、私の知る僧侶の中にも、「終活」なんて必要あるのかというようなことを、声を大にして言われる人もいます。では、そのような理由は何かというと、「終活」は、言い換えればわがままの集大成だという意見なのです。つまり、私自身のエゴイズムを実現させるために、死ぬ前に自分の思うとおりにしてほしいということを書き残し、さらには、自分が亡くなった後の財産や決め事まで自分の好き嫌いを反映させる。生きているときだけにとどまらず、亡くなった後にまで自分の思いを反映させようというのは、それはエゴイズムの極まりだということで、「いま流行の終活は必要なのだろうか」という意見を聞くわけです。
それについては否定いたしません。現在の世間の「終活」を見てみますと、そういった側面も大きいと正直に思うこともあります。しかしながら、私は高齢者の施設で長く相談員をしておりました経験から言いますと、ただ否定的に「終活」を捉えるのではなく、現代においては大切なことがらも大きく含まれていると感じています。その中で今日は一つ、「終活」に含まれる終末期医療(人生の最終段階における医療)に関することがらに絞って話したいと思います。高齢者の現場で実際にご家族が悩むケースを見ています。そういう場面に身を置いていた私としては、人生の終末期ということを考える上では、終活的取り組みの必要な部分があると思っています。
「終活」というと、一つには「エンディングノート」に、延命治療に対する意思を自らがしっかりと表明し、それを家族と共有するという内容が欠かせません。私自身、まさに終末期医療を希望するかしないかという場面に度々立ち会いました。カンファレンスといって、医師と一緒にご家族と今後のことについてどうするかを話し合います。私がいた施設は、特別養護老人ホームでしたので、施設で最期まで生活されるということが多くあります。通常は老人ホームにいる方でも、亡くなる時は病院に運ばれ、病院で命を終えるということもまだまだあります。私の勤めていた施設をはじめ特別養護老人ホームという施設は、「終(つい)のすみか」と言われることがありますが、特に私のいた施設は、多くの方を最期まで看取るということに取り組んでいました。
昨年亡くなりましたが、私がいた施設には「看取り」「自然死」で有名な常勤のお医者さんがおりました。その医師は、「人間は自然に亡くなるのがいい。一番苦しまない」と常に言っていて、「大往生したければ、お医者さんは必要ない」という主旨の本も15年ぐらい前に書かれてベストセラーになりました。人間は自然に亡くなるのがいいと言い、延命治療や、胃に穴を開けて命を長らえる「胃ろう」などの処置は本人にとって穏やかではなく苦しさが増すのだというような内容を著書で述べている先生です。ですから、当然、私がいた施設では、自然に亡くなるというような方が沢山おられたわけです。しかし、誰でも自然に最期まで施設にいて看取られるというわけではありません。ご経験がある方もいらっしゃると思いますが、そのようになる前の段階には、ご家族に施設においでいただき、「延命治療はどうされますか」「意向はいかがですか」というような話し合いをきちんとしなければいけません。その必要性を痛感しています。
そして今回は、もう一つ話題があります。現在、私が関わっている「成年後見人」という制度がります。認知症や精神的な障がいなどによって判断能力が低下した方の財産管理や生活に必要な契約など支援し、社会的に、法的にサポートするための制度があります。家族がいない方の施設の入所手続きなど、身の回りの手続きで、代わりに契約や、もしくは不当な契約について解約を進めたりということも行います。私が担当しているのはご家族がいない方がほとんどです。認知症の方もいます。特に私がかかわっている法定後見人という制度は、財産等に関するいろいろな判断能力、もしくは意思表示が難しいというような状況にすでになられ、生活上で何かしらの困難が生じてから、その方にかかわる担当のケアマネージャーであったり、社会福祉協議会の方、遠縁の方などが、これは後見人をつけなければ駄目だということを判断して裁判所へ申し立てして、そして後見人が選任されます。
つまり、私のような法定後見人の場合は、その方がすでに認知症になられてからはじめて、選任されて出会い、後見人になるわけです。家族がいる方の場合は、財産についてや、それまでの暮らし向き、認知症以前にはどういう思いをもち、どんな希望があったのかを家族などに尋ねることができます。しかし、家族がいない場合は、そういった本人の意向や、過去の生活状況が確認ができない中で、まずはどういう財産の管理状況なのかを把握することから始めます。場合によっては時間がだいぶ経ってから財産(負債含む)が判明することもあります。
さらに言えば、病院に入院した時に延命治療をどうするかということなどは、本来は成年後見人の業務ではないのですが、さすがに家族がいない場合は、現状、関わらざるを得ません。医療関係者、福祉関係者と一緒に相談しながら、延命治療を行うか行わないかということを、現場で決めていかざるを得ないのです。あくまでも本人の意向を尊重せよ、といわれるのですが、それはとても困難な現実もあります。
そういった場面で感じるのが、本人の意思を確認しておくための「エンディングノート」といったものがあるならば、その方の希望や思いに耳を傾けた支援を成年後見人としてもできたのではないかと思うことが度々あります。そのような経験からも、全て大事だとは思いませんが、「終活」という取り組みは大切だという立場を取っています。
また、「介護」の話しにおいても、将来どこで介護を受けたいかという話もあります。また認知症になった後でも何を大切にしたいか、大切にしてほしいか。そして、お金に関することも含めてですが、つまりは「終活」を考えるという取り組みが、自分にとって本当に大切なことは何かを考える機縁になるのではと思います。
中島 航(なかじま・こう)
九州大谷短期大学福祉学科・仏教学科講師。
1975年生まれ、東京都出身。大谷大学大学院修士課程(真宗学)修了。社会福祉士、介護支援専門員、権利擁護センターぱあとなあ福岡会員、真宗大谷派教師。特別養護老人ホーム、養護老人ホームの主任相談員を経て現職へ。また現在は福祉相談事務所風航舎(ふうこうしゃ)を設立して成年後見人等の活動も行っている。専門分野は、家族支援を中心としたソーシャルワーク、看取り支援、グリーフケア(遺族支援)、高齢者の権利擁護、仏教的視点から考える高齢者福祉など。