2021年11月25日
Category 終活
終活にまつわるテーマを取り上げながら、各専門分野の先生がそのテーマのポイントをわかりやすく解説する「終活コラム」です。
今回のテーマは「福祉と仏教」です。特に終末期医療の問題を取り上げ、人生の最期はどのように考えるべきなのか、高齢化社会の現状を踏まえ、仏教的視点から尋ねていきます。
私は現在、九州に住んでいますが、毎年お盆と正月は大阪にある妻の実家に一緒に帰省しています。実家には妻の母と95歳になる妻の祖母が2人で住んでいます。祖母は、頭もしっかりしており、身のまわりのことも自分でできる体力があります。6年ほど前から乳がんを患っていますが、高齢ということもあって進行も遅いので、手術をせずに自宅で服薬治療のみ行っています。その祖母は妻に対して「私はもう90歳過ぎたから、十分長く生きさせていただいた。もういつお迎えがきてもいい」と会う度に話していました。しかし、一昨年からの新型コロナウイルス感染症の流行によって、祖母の言葉は一変しました。
妻に「コロナが収束するまで大阪には帰ってこないでね。おばあちゃん、コロナでだけは絶対に死にたくない」と言うようになりました。同居している義母に事情を聞くところ、祖母は「コロナでだけは死にたくない」「お葬式もどうなるかわからないし、ご近所の人にどう思われるか」とよく話し、日課の散歩もやめて、家から全く外へ出なくなってしまったのです。
私たちは最期の在り方についていろいろと考えを巡らせます。
現代は、「終活」に関する本やWEBサイトが多く溢れています。それらを手に取れば、遺産相続、葬儀やお墓のことと並んで「終末期医療(人生の最終段階における医療)について」考えておくことが大切です、という内容も多くあります。また「終活」以外のところでも、終末期医療の希望を聞かれる場面もあります。たとえば病院へ入院したとき、介護の施設へ入居したとき、その意思を聞かれたり、書類に記入を求められたりした経験をお持ちの方もいるでしょう。医療・医学の進展により、自分の最期について、つまりは終末期医療について、事前に自分の意思で選択しておかなければならない時代になったとも言えるでしょう。
なぜ「終活」やその他で、終末期医療についての希望を事前に聞かれることが増えてきているのでしょうか。それは実際に終末期医療の選択を判断しなければならないときには、すでに本人の意思を確認できない状況であったり、本人が判断できない場合も多いと言われています。とくに近年は超高齢社会でもあり、認知症をかかえる方、単身世帯の増加なども理由にあげられるでしょう。本人の意思が確認できないときは、終末期医療の選択について、家族などが本人の代わりに判断しなければならない状況になります。
本人が元気な時にしっかりと意向を聞けていればよいのですが、そうでない場合、家族は「私の判断でこの人の命の長さが決定してしまう」「本当にこれでよかったのだろうか」など、どのような選択をしても後悔の念を長く引きずってしまうことが多くあります。
そのようなことからも「どうしたいか」を本人が判断できるうちに、事前に書面などで意思表示しておくことや、たとえ口頭であったとしても家族と話し合う機会を持っておくことがすすめられます。近頃では、終末期医療をどうするかについて、本人や家族間だけではなく、医師、福祉関係者までもが積極的に関わって事前に話し合っていこうという取り組みもあります。それらは、「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)」や「人生会議」などと言われて厚生労働省を中心として広く宣伝されていますので「人生会議」とインターネットで検索していただくのも良いでしょう。
ここ十数年の間で、高齢者への終末期医療に関する考え方も少しずつ変化してきています。
高齢になってからの積極的な治療は、本人にとって負担や苦しみも多く、望ましくない、という意見や情報が様々なかたちで主流になりつつあります。病院の医師をはじめ、福祉にかかわる人たちにもそのような考え方をもつ方が増えてきているので、終末期の積極的な医療について「希望しない」方を選択しやすくなっているとも言えるでしょう。また、家族も以前に比べると戸惑いが少なく終末期医療を行わないという選択をしやすくなっているのではと思います。
また内閣府の『高齢者白書』(平成29年)では、高齢者の延命治療の希望についての調査で、65歳以上で「少しでも延命できるよう、あらゆる医療をしてほしい」と回答した人の割合は4.7%と少なく、「延命のみを目的とした医療は行わず、自然にまかせてほしい」と回答した人の割合が91.1%と9割を超えるという結果もあります。
高齢者が積極的な治療をせずに最期を迎えることを表す「自然死」や「平穏死」という言葉もよく耳にするようになりました。「その方が穏やかで苦しみが少ない」「理想的である」「良い最期の迎え方である」という情報も溢れています。もっと言えば、積極的な治療を選択するような高齢者の最期は「悪い最期」とまで受け止められてしまうような世間の空気にもなりつつあります。
確かに、苦しみが少ない安らかな最期の方が「良い最期」であると、誰もが願うことかもしれません。
しかし、ここで少し立ち止まって考えてみたいと思います。今、私たちは医療・医学の進展により、終末期医療について自分の意思で選択することができる時代になりました。
高齢者の終末期にかかわる仕事をしていた立場としては、「終活」や「人生会議」の大切さは理解できますし賛成します。しかし、「命の長さ」「最期のあり方」「最期の場所」を自分で希望を明示しておけば、その通りに実現できるかのような、この社会全体の動きに、私は疑問を感じることがあるのです。
仏教は、私たちに対して「生老病死は思い通りにならないものである」と、何度も繰り返し語りかけます。
最期の在り方について(※1)法然上人は(※2)「人の死の縁は、かねてからの希望や予測通りにならないものである」と言われます。さらに親鸞聖人の弟子、唯円が著した『歎異鈔』第十四条の中では(※3)「業の報いに限られて、どのような最期を迎えるかは、私たちの意思のおよばないことである。思いかけないような事柄にあって、病悩、苦痛にせめられて穏やかでない最期を迎えることもあるだろう」ということまでも教えられます。
いくら私たちが希望していたとしても、いつ、どのような最期を迎えるかわからない。そのようなこの身を生きているのです。最期は苦痛の中に亡くなるかもしれません。しかし、それが私たちの身の事実です。
予測できない自分の最期について思いはかり、希望を記した書式(事前指示書やエンディングノート)や家族への宣言は、本当に、生きている私の心の拠り所になるものでしょうか。エンディングノートや遺言書、書類を準備して、それですべて満足という終活になっていませんか。仏教はそのような問いを、私たちに語りかけています。
(おわり)
(※1)法然(1133-1212)。親鸞聖人の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。どんな人にも「ただ念仏」の専修念仏の教えを説き、主著『選択本願念仏集』を記した。親鸞聖人は法然上人を生涯の師と仰ぐ。
(※2)「人の死の縁は、かねておもふにもかなひ候はす」(『往生浄土用心』・『法然上人全集』564頁)
(※3)「業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん」(『歎異抄』・『真宗聖典』635頁)
中島 航(なかじま・こう)
九州大谷短期大学福祉学科・仏教学科講師。
1975年生まれ、東京都出身。大谷大学大学院修士課程(真宗学)修了。社会福祉士、介護支援専門員、権利擁護センターぱあとなあ福岡会員、真宗大谷派教師。特別養護老人ホーム、養護老人ホームの主任相談員を経て現職へ。また現在は福祉相談事務所風航舎(ふうこうしゃ)を設立して成年後見人等の活動も行っている。専門分野は、家族支援を中心としたソーシャルワーク、看取り支援、グリーフケア(遺族支援)、高齢者の権利擁護、仏教的視点から考える高齢者福祉など。