お寺の掲示板Vol.20|サンガコラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2022年02月10日

Category サンガコラム

お寺の掲示板Vol.20

人間は思いというようなところに、
自分自身を安んずることができない。

安田 理深(やすだ りじん)

 

 7歳の冬。ある夜、学校の宿題をしていた私は、突然、文字を書くことができなくなりました。鉛筆を握ると、どういうわけか右手に力が入りすぎて、指先を思うように動かせなくなったのです。これは、その後進行していく病気が発症した瞬間でした。

 数年後に分かった病名はジストニア。意図せず筋肉が収縮してしまう神経難病でした。あの夜、右手にあらわれた症状は、成長とともに、左手、足、首、胴体へと広がっていきました。歩くことや座っていることもままならなくなり、大学生になる年には、腹ばいだけが、唯一、落ち着ける体勢になりました。

 病気を治すために、いくつもの病院を訪れました。さまざまな治療を受けましたが、改善するきざしはありませんでした。「治るまで諦めない」と強く念じる一方で、「治らないのなら、せめて病気を患っていることを受け入れて生きていきたい」と、思うようになりました。

 仏さまを信じたら、どんなに不遇な状況も、「ありがとう」と思って引き受けていける。お寺に生まれた私は、仏教に対して、漠然とこんなイメージを抱いていたのです。そしていつしか、病気を受け入れられないのなら、仏教の教えを聞く甲斐がないとさえ、思うようになりました。

 ですが、そう簡単に病気を患う自分を肯定することはできませんでした。私の思いは、まるで振り子のように揺らぎました。受け入れられるかもしれないと、心穏やかに過ごせる日もありましたが、もうこんな身体はいやだと、自分自身を放棄したくなるような日もありました。私は、病気を治すことも、病気を受け入れることもできず、行きづまっていったのです。

 ――あるとき、身体や心の問題がなくなることが仏教の救いなのではない、と教えられました。そのことによって、私は、病気を患う自分を受け入れなければならないと思い、苦しみを深めていると気づきました。私は「私の思い」によって苦しんでいたのです。

 日々生きる中で、「私」がどう思うかは、とても大切です。今もなお、それをたよりに生活を送っています。それでも、「受け入れなければならない」という思いによって、苦しみを深めている私のすがたを教えられるとき、ほんの少し、救われています。

 

 

難波 教行(なんば のりゆき)

大阪府・淨圓寺
真宗大谷派教学研究所研究員

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