2023年02月16日
Category サンガコラム
押し入れの整理をしていると、思いもかけないものが次から次と出てくる。小学校時代の文集、高校生のとき行った美術展のチケット、大学生のときの北海道旅行の写真、大学院時代の研究ノート、読もうと思ってコピーしたまま忘れてしまっていた論文の写しなどなど。これらすべてが自分に関わりがあったものなのだから、今日まで70年以上生きてきたということには、どれだけ多くの人々や出来事との関わりが含まれていることだろうか。そんなことを考えながら、文集を開いたり、写真を眺めたり、ノートを読み返していると、遅遅として整理が進まない。
これらを残しておいても、写真はまだしもノートや論文のコピーは子どもたちには無意味なものでしかないだろう。そう考えて、段ボールから出てくるノートやコピーを切り刻んで廃棄していたが、すでに故人となった知人からの手紙が出てきて手が止まってしまった。
学生時代の自分の日記はなんの躊躇もなく廃棄できた。しかし、この手紙には決断が下せない。自分宛ての手紙なのだから、この手紙は私の所有物であることにまちがいない。にもかかわらず、この手紙には私の所有物であるということ以上のなにかが加わっている。それは知人と私との関係であり、手紙を廃棄することはその関係をも廃棄することである。だからこそ、この手紙を捨てることができないのである。
現在は私の所有となっているが、この手紙は本来故人の所有であった。故人がこの私に宛てて語りかけてくれた言葉、それが託されてここにあるのである。託された言葉にいかに応えるか、それこそが求められている。私の所有物であることを越えて、この手紙はそれを私に要求している。捨てられるわけがない。
池上 哲司(大谷大学名誉教授)