真宗の終活 1-(1) 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2024年04月26日

Category 終活

真宗の終活 1-(1)

 

 

●自分を見つめるとは

 「終活」という言葉をよく耳にするようになって、10年ほどが経つのでしょうか。ある葬儀社のホームページに「終活は人生の棚卸。これまでの自分とこれからの自分を見つめ直すチャンス」とありました。では、どのようにして〈これまで〉と〈これから〉の自分を見つめ直したらよいのでしょうか。自分の人生の思い出を頼りにして、時系列で辿るのもよし、逆に現在を起点として人生の岐路ともいうべき出来事を辿るのもまた感慨深いものがあるかも知れません。ただどちらも、私の視点からの見つめ直しに留まってしまうのではないでしょうか。

 

 

●自分はどうなのか

 「浄土真宗とは、さて自分においては…と」(小山貞子)。これは、長年教えに自らの人生を聞き続け、仏の眼をいただきながら生きた方の法語です。私たちの日ごろの感覚ですと、教えを聞くということは「自分の問題を解決していく方法を教わる」のだと考えられがちです。しかし、この聞き方は、問題を〈自分の外〉に見るあり方ではないでしょうか。「肉眼は他の非が見える。仏眼は自己の非に目覚める」(川瀬和敬)という法語もあります。人間の目は自分の外を見るように出来ていますし、自分のことは分かっているようでも実際にはなかなか見えていないのではないでしょうか。

 それに対し、仏教の教えを聞くこととは「自分はどうなのか」と問われてくることなのです。仏教は「内観」と言われるように、〈自分の内〉をみつめるアプローチです。つまり、まな板の上にのせられるのは、私自身なのです。これまで、〈自分の外〉の事柄に対処して「自分にとって都合がよいように」との願望中心で生きてきた自分自身が問われることで、実は問題の本質が〈自分の内〉にあるのではないかと初めて気づくことなのです。
またそれは、仏の眼を通すことで、本当の意味で「自分を見つめる」ことが可能になるのです。「終活」という問題を考え始める動機は人それぞれでしょうが、多くの方は「親しい人との死別」(死)や「自らの老いや病」(老・病)がそのきっかけではないでしょうか。このようなご縁を機に、「さて、自分はどうなのだろうか」と初めて自分自身が問題になってくるのかもしれません。

●ターゲットは私

 別の言い方をすれば、お釈迦様の教えのターゲットは、外ならぬ私自身だったのだとビックリして目が覚めるのでしょう。そのことを親鸞聖人は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』後序、真宗聖典〔二〕783頁〔初〕640頁)と語っています。この目覚めのことを「二度生まれ」とも言います。人生の再スタートです。

●私にかけられた願いに出遇う

真宗門徒には、「ご先祖はお浄土にお還りになった。仏さまに成られた」と言って亡き人をいただいてきた歴史があります。「お爺ちゃんもお婆ちゃんも、お浄土に還られたんや」「仏さんに成られたんだね」と言って受けとめてきた。それは、私たちに「人間として生まれた本当の喜びを知ってもらいたい」と願いかける身になってくださったという意味です。

 ただ自分の幸せや自分の満足だけを求める身ではなく、この一生涯いろいろ苦労してきたけれど、思い残されることは、「後に残った子や孫が本当に人間に生まれてきて良かったなあと、そう言えるような人生を見出してもらいたい」という〈願い〉なんだと。亡くなった方は、私にそう願いかけて下さる世界に還られた。逆に言うと、その「亡くなった人の願いに出遇う」ということが、亡き人に出遇うということではないでしょうか。

 お父さんやお母さんは「一体、私に何を願っていて下さったのだろうか」と。亡き人の心に触れることがない限り、いくらお盆やお彼岸、そしてお内仏(お仏壇)にお参りしても、本当の意味でお参りしたことにはならないのではないでしょうか。お爺さんやお婆さん、お父さんやお母さんの「私にかけられた願いに出遇う」という事が、お参りすることの本当の意味ではないでしょうか。だから、亡くなった人を訪う(とぶらう)と言います。亡き人を改めて訪うというのは、そういう亡き人からの大切な〈願い〉を訪ねていくことなのでしょう。

このことを『正信偈』にでてくる道綽禅師は、『安楽集』の中で「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え」(『真宗聖典』〔二〕476頁〔初〕401頁)と表しておられます。大事な〈願い〉に出遇って欲しいのだと。ですから、その意味からも葬儀やご法事を勤めるということは、「わが人生の根っ子となる亡くなった両親やお爺ちゃんやお婆ちゃんが、この私に何を願っていてくれたのか」ということを静かに訪ねる場を頂くことなのでしょう。

●「お婆ちゃんはいつお墓に入るんや?」

 お墓参りもそうです。先輩住職から教えて頂いたお話をもとに、ご一緒に考えてみましょう。

 あるお婆ちゃんと孫が「このお墓にはお爺ちゃんが入っているよ」といつも話しながら、一緒にお墓参りをしていました。しばらく参っていたら、やがて孫がお婆ちゃんの顔を見て「お婆ちゃんはいつお墓に入るんや?」と聞いたと言うのです。お婆ちゃんは、驚いたのと同時にどう考えたかと言えば、「ははぁ、これは嫁が言わせとるな」「そうか、私が居らん時に日ごろからそういう話ばっかりしておるんか」と思ったのだと。いま笑った人は、同じ心根があるのでしょうね。ところが、このお婆ちゃんはよく聞法なさっていた。教えをよく聞いておられた。そこでお婆ちゃんは、「いや待てよ」となったわけです。「お墓にはお爺ちゃんが入っていると言うたが、自分の事を忘れておった」と。孫によって、「お婆ちゃんよ、あんたはいつまで生きとるつもりや。やがてここに入らなあかん身やないか。それなら、毎日の生活がどこを向いとるんや」と問われたわけです。毎日、本当に生きて良かったと言えるような生活をしているのかと…。孫がそう思って言ったわけじゃないでしょうが、お墓参りを縁として、私に告げてくれていたんだなぁと改めて知らされましたと。こういうお話でした。

 

●亡きお爺ちゃんの〈願い〉が聞こえた

 そこに、亡きお爺ちゃんの〈願い〉が、孫の言葉を通じてお婆ちゃんに響いてきたのでしょう。つまり、お爺ちゃんはお墓のなかに居ると思っていたけれど、そうではなかった。「婆さんよ、この人生何十年もの間苦労も共にしたけれど、それだけじゃない。本当に人間に生まれて良かったと思えるような人生を送ってほしい」と、そういう〈願い〉となって、お爺ちゃんのいのちは私の上にはたらいておってくださったんだと受け取ることができたわけです。「本当に“このいのち尊し”と言えるようなものに、もういっぺん出遇い直してくれよ」と、そういうふうに孫の言葉から亡きお爺ちゃんの〈願い〉が聞こえてきたわけでしょう。

 仏法を聞くということは、何か知識を蓄えて立派になっていくということではなくて、日常生活の中で表面的な意味でしか受け取れなかったことが、仏の眼を通すことで「そうか、そういう意味で私にはたらきかけてくれていたのか」という〈願い〉として受け止められる、聞こえてくる、ということなのでしょう。それが、聞法することの大事な意味だと思うのです。

●終活の課題

 ですから、仮に私たちの日ごろの感覚で「ははぁ、これは嫁が言わせておるな」と真に受けたとしたら、その後はどうでしょう。何気ない孫の一言がきっかけとなって、お嫁さんにその言葉をぶつけたとしたら、その先は売り言葉に買い言葉の応酬、いわゆる泥沼状態に陥るのではないでしょうか。怒りと腹立ちから一歩も出られない悲惨で痛ましい状況が目に浮かぶようです。

 しかも、もしこの時に遺産相続のことを考えていたとしたらどうでしょうか。「こんな嫁には一銭もやらん」となるかもしれません。例えば、自分の財産を握って、自分の言うことを聞く人には渡すが、気に入らない身内には絶対に渡さんとなったとしたら、孫の代にまで人間関係がこじれてしまいます。よく言われることですが、これでは「相続」ではなく「争族」です。自分の握った煩悩によって争いの火種を一族に残すのか、亡き夫から引き継いだ志を大切な〈願い〉と共に手渡していくのか…。ことと次第によっては、自分の思いを握って手放すことが出来ないあまり、安心するどころか死ぬに死ねない状況が予想されます。そこに終活における私たちの大きな課題があるのではないでしょうか。

 

お釈迦様が出家した理由

 あらためて、先ほどご紹介した「浄土真宗とは、さて自分においては…と」の法語が、私自身の上に味わわれてきます。身近な方の死を通して、私が問われることが起きてくる、そういうご縁を仏の眼を通すところにいただけるのではないでしょうか。亡くなった方はどのように生きたのか、私自身は死すべきいのちをどのように生きているのか。何を大切なこととして、どこへ向かって生活しているのか。このような問いは、教えの言葉が鏡となって私の姿が映し出されることで、明らかになってくるのでしょう。

 「終活」を始めるにあたって、まず何から取り組むのかといった時、エンディングノートを手にする方も多いのではないでしょうか。その中には、介護問題・ライフプラン(老・病)、相続問題(死)、それを記すための遺言(願い)が設けられているはずです。そして、親戚縁者の連絡先(縁起・関係性)という欄も必ずあるはずです。

 ところで、お釈迦様が出家した理由をご存じでしょうか。それは、「四門出遊」という出来事がきっかけとなり、老いや病を得てやがて死んでゆかねばならない事実に直面し、生きることに苦悩と疑問を抱えたことが大きな要因であったと考えられています。つまり、私たちが「終活」を考えるということの根底には、お釈迦様が出家された際に悩み苦しんだ「生老病死」という大切な課題があったのです。その意味では、お釈迦様と同じ課題を担う身になったということかも知れません。

【次回へ続く】

藤谷 真之 (ふじたに・まさゆき)

1974年(昭和49年)生まれ

一般の大学を卒業後、同朋大学別科(仏教専修)にて真宗大谷派教師資格を取得。

1998年から9年間、真宗大谷派宗務所に勤務。

現在、山梨県笛吹市佛念寺住職。真宗会館教導、東京教区教化委員会 同朋の会推進部門幹事のほか、

社会福祉法人善隣会理事、民生委員児童委員、笛吹市市民後見人として活動している。

 

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