2024年11月12日
Category サンガコラム
景気のよしあし、天候のよしあし、成績のよしあし、そして、人のよしあし……。時にはよく知りもしないのに、周りの意見や報道を鵜呑(うの)みにして、あらゆるものによしあしのレッテルを貼っている。まさに、世の中全体が「よしあしということをのみもうしあえり」である。しかし、「われもひとも」という言葉にハッとする。「われ」を棚上げして、よしあしに縛られる「ひと」や社会をあげつらっていたと。
俳優の高橋一生さんは舞台「天保十二年のシェイクスピア」で、悪役「佐渡の三世次(みよじ)」を演じられた。三世次は、30歳そこらで腰が曲がり、左足を引きずり、顔の右半分は大きなやけどのあとが残る容姿で、社会から蔑(さげす)まれる無宿者。おまけに彼は狡猾(こうかつ)で、人を欺(あざむ)き、盗みや殺しも厭(いと)わない、まさに醜悪な極悪人として描かれていた。舞台を鑑賞しながら、「なんて悪い奴なんだ」と呟(つぶや)いてしまうほどに。
ところが、高橋さんはあるインタビューで、「僕は今までにない、完全無欠の悪役に思えたんですね、僕の役が。けれど、お芝居をさせて頂いているうちに、かばいたくなってくるんです。どうしてもその役を」とぽつり。三世次の生い立ちや生き様に思いを巡らし、役柄になりきろうと、くり返し演じることで、本当はそんな悪い奴ではないのにと弁護したくなるというのだ。
三世次の行動には、社会から見下され、悪人と恐れられ続けた不遇な生い立ちが影を落としているのかもしれない。もし、自分が彼の立場だったとして、そうならないと断言できるだろうか。三世次も本当は人を愛し、愛されたい、そして助け合いながら生きたい、そんな願いを胸の奥深くにしまい込んでいるに違いない。高橋さんの一言をとおして、彼の悲しみや傷(いた)みに触れようともせず、あまりにも簡単によしあしで裁く「われ」に気づかされた。
沼のほとりなどに群生しているイネ科植物の葦(よし)は、蘆(あし)とも呼ばれ、興味深いことに「よし」「あし」に音が通じる。この葦(蘆)の地下部分は、地下茎や根が複雑に絡み合って、地上部の二倍もの量が存在し、お互いの根や茎で砂や泥などの軟弱な地盤を支え合っているという。見えない深い部分でつながり、支え合い、群れて生きる他ない弱きもの同士が、お前は「よし」であいつは「あし」だと批判し、差別し、傷つけ合うのは、あまりにも悲しい。だれもが等しく深い根をもち、悲しみや喜びのいのちを支え合って生きていることへの想像力こそが、この「われ」に願われているのだろう。
本明 義樹
大谷大学 講師