2019年02月07日

Category サンガコラム

お寺の掲示板

人生が
行き詰まるのではない 
自分の思いが
行き詰まるのだ

(安田理深)

 「将来を悲観して苦しくなるたびに、この法語が立ち現れてくるんだ。”ああそうだ、そうだったぁ “とほんと頭が下がるよ。思い込みが破られてリセットされた感じで、なんとかまた一歩が踏み出せる」と語ってくれたアキちゃん。私はそれまでの心配が安堵に変わり、感動と尊さをも覚え、「頼もしい言葉に出会えて本当によかった!」と言うと、彼女ははにかみながら「苦しい時に現れてくるなんて、まるで宇宙から飛んでくるヒーローみたいでしょ。あ、でも」と更に続けました。「空からやってくると言うとちょっと違うんだ。ほら、例えばミュージシャンが曲作りの時に、音や歌詞”降りてきた“とか言うことがあるよね。でも私の場合はそんな上の方からのキラキラじゃなくて、足元の方からくるイメージだからか、もっと泥くさいな」と自嘲気味に笑った彼女。思わず「それいいと思う!だって泥はすごいよ! 蓮を咲かせちゃうんだから」と返したのは随分と子どもじみたリアクションだったなと少々後悔しました。泥の中はたくさんの生きものが一生懸命に生きる現場です。

 ”泥くさい“との彼女の表現には、飾らない生活実感とか、大地に根ざした生命感覚とか、多様性のある場への敬愛や、そこに生きる意欲や命の尊厳が込められている、などと言えば少しはさまになったのになあと苦笑。

 それはさておき、仏教で泥は煩悩を意味し、そこから咲く蓮の台座にお立ちになる阿弥陀如来は救いの象徴ですが、彼女は言いました。「阿弥陀如来の立像はきれいな蓮台の上にあるけど、実際の阿弥陀さんは泥の中だと思うのよ。煩悩は死ぬまであるから、一生ジタバタする私を助けようとそこで働いてくださる存在なんだ。死んでからお世話になるものだと思ってたけど、ずうっとお世話になりっぱなしだったって気づいたの。悲観し苦しむのは自分が思いを固めた結果と知ったのに行き詰まりを繰り返す。それでも阿弥陀さんは私を見捨てない。なんかもう、じぃーんとくるよ」。
 行き詰まらないでいるうちは、阿弥陀さんを必要と思えません。そう思えないのは煩悩のせい。悲観するのも煩悩の用き。そんな厄介で困った汚泥ですが、そこに阿弥陀さんがいらっしゃるとなると、泥はもはや単なる汚泥ではなくなります。阿弥陀如来を教えてくれる縁となる泥。ふと響いてきた「煩悩を尊べたら一人前」ということを、仏法に尋ね始めた昨今です。

 

久万寿 惠美(くます・めぐみ)
東京都台東区・林光寺

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