親鸞フォーラム
社会×共育×仏教―育つ力、育む力―(4)
2017年3 月19日、丸ビルホール&コンファレンススクエア(東京都千代田区)を会場に「親鸞フォーラム―親鸞仏教が開く世界」が開催されました。本抄録は「社会× 共育× 仏教-育つ力、育む力―」をテーマに行われたシンポジウムの内容です。
「差し出す」という生き方
小島 私たちにとってすごく難しい行為の一つに「差し出す」ということがあると思います。差し出すというのは、大げさな自己犠牲ではなく、例えば、先ほどのお話にあったように、面白くないジョークに笑ったり、全然話が合わない人とでも雑談してみる。これも差し出す行為です。差し出すのは怖いことです。自分を開きますし、相手に委ねることですから。何かを失うのではないか、奪われるのではないかと思ってしまう。
でも、私の場合は怖くないんですね。タレント、エッセイストというのは、呼ばれてもいないのに、お茶の間に映り込んだり、文章を書いたり。そういう仕事を生業にしているわけで、それも差し出すということの一つです。差し出せば、けなされることもあるし、ないがしろにされることもあります。でも、それによって失うものは、実はあまりないのだなと気付いたのです。
差し出すことによって人さまの役に立てれば、それがもちろん一番いい。でも、そうでなくても、ただ差し出すという姿勢によって、自分が他者を信じることができる。実はそれが一番幸せなことなのではないでしょうか。本当に誰が信用できるかというのは分からない。自分の家族や、自分自身との折り合いもそうです。でも、こんな自分でも、精いっぱい胸の内にあるものを差し出そうという気持ちで、人に話し掛けたり、あるいは、そのように差し出してくれた人の言葉に精いっぱい応えるということの中から、人への慈しみやいたわりのようなものは生まれてくるのではないでしょうか。
差し出しても何も奪われないんだなというのが、二十数年、人さまの前でお話をさせていただいたり、拙文をいろいろ書かせていただく中で、少し分かってきたところだったのです。
一楽 小島さんは、はじめ自分自身と折り合いがつかないところで不安を感じておられたということですが、どのようなきっかけで「差し出す」というところに開かれていったのですか。
小島 私にとっては二つの段階がありました。私が人前に出る仕事に就いたのは、自分のことが大嫌いだったからなんです。自分なんか死ねばいいと本気で思っていました。でも私が好きになれない私を、たくさんの人に愛してもらえれば、私が私とうまくやっていけるんじゃないかというのが、人前に出る一番の動機だったのです。それで人前に出てみて分かったのは、私が愛されたいように私を愛してと言っても、人の気持ちは思い通りになりません。今日ここに3 0 0 人の方がいらっしゃったら、300人なりの小島慶子というものをお持ち帰りになるのだと思います。テレビに出てしまうと、それが1千万人とか、2千万人。私の知らない小島慶子が増殖し続けていくわけです。そんなものを自分の思い通りにしようと思ってもしようがない。もうこれは差し出すしかないなと。
また、そのときラジオの仕事を通じて、色々なかたちでリスナーからの声をいただきました。自分からすればどうでもいいような雑談、くだらない話でも、たまたま辛いときにラジオをつけてくれていた人から、「あのお話に元気をもらって、今日まで生きてこられました」と言われることがありました。あずかり知らないところで私が増殖していくことと同時に、あずかり知らないところで、私のどうでもいい話が、誰かの支えになるのだと思ったら、私のような価値のない人間であっても、生きて何かをしゃべるのは無駄ではないのかもしれないと思えた。そのことが、まず一段階です。
その後は、不安障害という病気の治療で、30代のほぼ10年間使ったのですけれども、最初は、私がこんな生きづらいのは、うちの家族のせいだと思っていました。でも、カウンセリングに通いながら、怒りを吐き出しているうちに、ふと、母や父や姉は何であんなことを私に言ったんだろう。何を求め、何に苦しんでいたんだろうと考えるようになりました。そうしたら、母も私と同じように不安を抱える一人の不完全な女性で、姉も私と同じように傷つき、よりよく生きたいと願った一人の女性で、父もやっぱり満たされない思いを抱えたまま、自分の家族で幸せになろうとした人だったのだということが分かってきました。みんな私と同じように不完全で、私と同じように幸せになりたくて、じたばたもがいている。家族を、名前を持った一人の人間として見ていけるようになったとき、自由になれたのです。
そのときに、人が幸せになろうと思って集まっている家族という場所では、誰が悪いわけでなくても、こういうことが起きるのだということが分かりました。だとしたら誰かを憎むよりも、私はあなたの苦しみが分かりますよとか、分かることはできないけど分かりたいと思いますよと言えるように生きていきたいなと。
そういう二つの段階を経て、差し出すとかという心境に至れたというところでしょうか。
声に出すことで息を一緒に吐いて、それによって自分を投げ出していく。
齋藤 小島さんが自分のことを嫌いでしかたがなかったという話を聞いて驚きました。いかにも自信を持ってアナウンサーをやっておられる印象でしたので。人から好かれたいというお話がありましたが、他者からの肯定を求めるときに難しいのは、例えばSNSで「いいね」をたくさん押してもらわないと落ち込んでしまうとか、他者依存が強くなることで、自己承認欲求が強くなりすぎてしまうということがあります。
私は呼吸の研究を長くやっていますが、東洋の呼吸法は吸うことよりも吐くことに重点を置きます。吐いていけば意識して吸わなくても自然に息は入ってくる。吸うときは力みが入りやすい。吐く息を中心にしていくと、心が安定すると言われています。だから自意識が強くなり過ぎてしまったときは、そうやって息をふうっと吐いていく。これは自分を明け渡すということで、差し出すということにも通じていると思います。息を吐いて吐いて、吐ききったときに一度、自分がそこで一度死ぬというイメージを持つのです。そして死んだところに、新しい息が入ってくる。そうやって、毎回軽い死を経験すると思いながら呼吸するということをやっていたことがありました。
念仏というのも、声に出すことで息を一緒に吐いて、それによって自分を投げ出していく。その反復によって、心が少し落ち着くということもあるのではないかと、呼吸の専門家としては思うところです。『論語』の素読もそうですが、音読することは自分を見つめていくという作用があるのではないでしょうか。
だから自分をあまり重く見過ぎない。息を吐いて、軽くこれで一回死んだなと思ってみる。そうすると心が少し身軽になるし、自分を愛するということにも繋がりやすいのだと思います。

ツイッター菩薩
齋藤 SNSと言えば、先ほど控室で小島さんが、「ツイッター菩薩」と言われそうになったというお話がありましたね。
小島 その言葉を発明したのは、私と一緒にラジオをしていた、ライムスターの宇多丸さんという方です。私はSNSのツイッターをやっているのですが、知らない人からよく絡まれます。でも、私はそういう人たちに、何で私に絡んでくるのか、その理由を聞きたくなって返信してしまっていたのです。それをやっていたら人がもっと寄ってきて、ものすごくやりとりが忙しくなってしまったんですね。そうしたら宇多丸さんが「小島さん、すごいね。でもあれをやっていると小島さん、ツイッター菩薩になっちゃうよ」と。成仏したい人がいっぱい集まってきてしまって、小島さんは、その人たちを浄土へ送っているんだね。でも毎日それをやっていると、体がもたなくなっちゃうよ、と。
私が欲していれば、その人の言葉は、私にとっては金言になり、救いの言葉になる
ある時、そうやってツイッター菩薩のところに寄ってきて、罵詈雑言を吐いて絡んでくる人たちというのは、大嫌いな自分を誰かに愛してもらいたくてテレビカメラの前に立った私と同じじゃないかと思ったのです。だけど「いいね」の数とか、視聴者からの人気では、幸せにはならないんですね。自分に見えるかたちでの承認を得るということではなく、まさに差し出して、そのことがどこか知らないところで、思いも掛けない誰かにとっての喜びになったり安らぎになったりすることもあるかもしれない。そう思えることが私にとっては救いだったのです。
それは別に家族とか大親友とかでなくても、それこそ電車で乗り合わせて雑談をした相手とか、コンビニへ行く途中の道で声をかけてくれた人でもいいのです。私たちはたくさんの物語に慣れ過ぎてしまっているので、人が人を救うということは、壮大なドラマや非常に密接な人間関係が必要なものだと思い込んでしまっています。通りすがりの人の言葉や、友達との雑談の言葉にはそんな価値がないと思いがちですよね。でも私が本当に救いの恩人だと思っている人は、生後1カ月の息子と道を歩いているときに声をかけてくれた知らないおばさんだったのです。その方は、たまたま赤ちゃんを見て、「あら、かわいいわね。1カ月なの。今、大変でしょう。でも、だんだん楽になるからね。まあ、ほんとかわいいわね。大丈夫よ。心配しなくてもいいわよ」と言って、いなくなってしまいました。産後、子どもと二人きりで不安で、本当に目の前が真っ暗だったときに、その言葉を聞いてどれだけ救われたか。たぶんその人は帰り道にはそれを忘れていると思います。でも私は手を合わせて泣いていました。それを言って欲しかったのです。だから、私が欲していれば、その人の言葉は、私にとっては金言になり、救いの言葉になるんですね。
お坊さんや先生のお話もありがたいけれど、それは別にプロじゃなくても、どんな人にもあることなんですね。ここにいる皆さんも、今までに何人も言葉で救っているはずだと思います。ただ、死ぬまでそれに気付かないだけなのでしょう。
齋藤 小島さんは、家族間の思いの交錯の中で、大変苦労をされたということですが、考えてみると家族というのは一番ワイルドな空間ですよね。野生のぶつかり合いといいますか、むき出しの野生が野放しになっている空間。それが家族。他のところでは一応気を使いますよね。取り繕うし。他の人との関係は、そんなに危険はない。でも家族というのは本当に剥き出しで危険な状態です。
昔の家族は、そうでもなかったんですね。家父長制のときは、父は父の役割、母は母の役割、子どもは子どもの役割がはっきりしていた。家族同士が敬語を使ったりして、形というのがあったのです。今の家族は形がない分、本当にワイルドだし、目が曇っているというところもあって、お互いのいい面を見られる関係でないとやっていられないねというところがありますよ。
本明 形がない分、逆に理想の家族像というものに縛られ、苦しめられるような面もありますね。
小島 物語型社会というか、メディアでは地獄のような崩壊した家族か、絵のようにしあわせな家族というのがコンテンツとして消費されやすいですけど、たいていの家族はその間ですよね。絵になるほど美しくもないけど、地獄絵図というほどでもない。ただ、その間のところで、人が追い詰められることは確かにあるのです。ですから、私のように中途半端に恵まれているように見える人間が、いくら家族がしんどかったと言っても、甘えているとか、おまえより不幸な人はいくらでもいるとか言われますね。
でも私も今日ここで学習しました。「アミタ」です。例えば鼻が低くて自殺したいと思う人と、借金を3億円抱えて自殺したい人がいて、借金3億円なら納得できるけど、鼻が低くて死ぬのはバカだと言えるでしょうか。言えないんですよ。鼻が低くて死にたいと切実に思って本当に死んでしまった人の辛さは、その人にしか分からない。そこは数値化できない。誰もそれを何かと比べてはかることはできない。
はかるのは暴力なんですよね。それは痛みも喜びも悲しみも全部そうで、そう思えば、確かにあなたと私は立場が違うから、あなたの苦しみは私から見ると甘っちょろいように見える。見えるけど、私はあなたじゃないから、あなたの痛みが分からないし、それなりの事情もあるかもねと留保できるのです。その留保が今、世の中では、とても少なくなっている。家族同士でもその留保がなくなっていて、あなたより、もっとひどい目に遭っている人がいる、文句を言うな。あなたは与えられた役割を全うして、お父さんらしく、お母さんらしく、子どもらしくしていなさい。「不平を言うのは甘えだ」と言われたら、いったい誰がどこで弱音を吐けるんだろう。
すると地下に潜りますね。夜中にパソコンを開け、そこに書き込んでいく。でも、そこに注ぎ込んでいるものを、そうじゃないかたちで誰かと分かち合ったら、友達ができるかもしれない。友達にはなれなくても、自分は一人じゃないと思えるかもしれないのになと、ツイッター菩薩を引退はしたものの思うわけですよ。