社会×共育×仏教―育つ力、育む力―(5) | 真宗会館コラム | 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館
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親鸞フォーラム

社会×共育×仏教―育つ力、育む力―(5)

社会×共育×仏教―育つ力、育む力―(5)

2017年3 月19日、丸ビルホール&コンファレンススクエア(東京都千代田区)を会場に「親鸞フォーラム―親鸞仏教が開く世界」が開催されました。本抄録は「社会× 共育× 仏教-育つ力、育む力―」をテーマに行われたシンポジウムの内容です。

パネリスト 齋藤 孝 氏 小島 慶子 氏 一楽 真 氏 コーディネータ 本明 義樹 氏

学びとは「祝祭」である

一楽 煩悩を断ち切らないと、人間は誘惑とか憎しみから解放されないということで、もともと煩悩を断ち切ることが仏教の基本だったわけですね。しかし、これを一つの形として立ててしまうと、今度は、それができない者、漏れていく者が出てくる。親鸞という人の悩みは、そこだったと思います。親鸞自身は、ある意味で、山の上で修行できる側の人間だったわけですけれども、山にのぼることも許されない人もいるし、修行できない体を持っている人がいる。そういう人はどうなるんだというときに、先ほどから出ている弱い者の側、威張らなくてもいい、みんな仲間なんだというところに立ち戻ったのが親鸞という人だと思います。だから、煩悩を断ち切れというのは大事な話ですが、それがまた一つの理想論となってしまうとき、仏教が人を排除する論理になってしまうのです。

 今日のお話から言えば、教育というのは達成目標という目印を必ず立てなければいけませんよね。でも、それを立てた途端に、必ず漏れる人が出るわけで、そこをどう本当にケアできるか、受け止めていくかということがないと、結局、教育と言いながら、競争社会を激化させていくだけではないでしょうか。

 私は新しい指導要領のことは詳しくはありませんが、お国から出てくるのは、前のが駄目だったから今度はと言って、いつもいいものが出てくるのです。でも必ず漏れる人がいる。だから「べき」では人間は助からないと思うんですよね。その辺に疑問を持ったのが親鸞という人です。よく勘違いされるのは、親鸞は山を下りて結婚もしたじゃないか、だから何でもありかと言われるのですけれども、そうではなくて、山の修行でないところにも道はありますよということを見せてくれた。そんな人だと私は受け止めています。

 

 

小島 学ぶというのは、目標を達成しないと意味がないというわけではないですが、目標が必要なのは確かだと思います。一番大事なのは、学ぶって何だろうかと考え続けることだと思います。以前この親鸞フォーラムにもいらっしゃった養老孟司先生も、「教養とは人の気持ちが分かること」、それから「学ぶというのは変わるということ」だとおっしゃっています。学ぶというのは、知識を増やして人よりも上に立つということではなくて、いろいろなものに触れる中で、自分が思いもかけないような変化をする。自分と誰かの間で互いに変化が生まれるということは、その対話を始める前の二人と、対話を終えた後の二人は、もう違う人になっているということです。その豊かさ。そこには不安も伴うわけですけれども、その豊かさを、では、どのように私たちが生きていくために役立てればいいのだろう。そう問い返すことが、もしかして学ぶということなのかなと思います。

 

本明 齋藤さんがおっしゃったように、寄り添うというのは、まず聞くということが大切なのではないでしょうか。しかし、今の時代には積極的に聞くということが、失われているように思います。

 

〝祭り〞は無償のエネルギーの放出

齋藤 聞くというのは基本的に、他者を受け入れることだと思います。例えば読書をするという時、書いているのは他人ですよね。他人が書いたものを延々と聞き続ける。つまり心を開き続けないといけないのです。すごい訓練ですよね。何日も何日もかけて読む。それで、その人全体を受け入れていくということですから、実は読書というのは教養以上に、他人を受け入れていく姿勢を技にしていくことだと思います。

 対話の場面でも、取りあえず相手が本当に言いたいことは何だろうかと酌み取ろうとして聞くのが大事だと思います。相手の言葉尻を取り上げて攻撃するのではなく、本当に言いたいことを酌み取る。自分が相手に勝とうとするのを捨て去ると、素直に聞けるのです。だから、自分の考えの方が正しいという姿勢だと、相手をどうやって引きずり下ろしてやろうかとなって、それは少し知性に欠けているように見える。知性というのは基本的にはフェアということです。対等な立場で、お互いに生み出していくということですから。

 学びには、いろいろ定義がありますが、私は「祝祭」と捉えています。学んだ瞬間は、ちょっと盛り上がるというか、お祭りなのです。学びは祝祭である。祝祭でないものは学びではないとさえ私は学生に教えています。例えば三平方の定理でも何でもいいのですが、感動するような発見で教科書は成り立っているのですね。でも、そこに感動が起きないとすれば、教師のやり方を省みなければいけない。気付きと喜びが大切です。

 今日でしたら「アミタ」ということを教えて頂いて、やはり感動があるわけです。この会場は「アミタ」の祝祭空間になっているわけです。「アミタ」でつながっている、喜びの空間です。だから帰ってから反すうされるのです。自分が学んだということを祝うという行為が大事なのです。ところが今の教育は、淡々と進み過ぎている。一つ学んだら、それを祝う自覚ですかね。スポーツだったら、ハイタッチしますよね。同じように学んだということをお互いに自覚し合う、その動作が必要だと思いますね。なぜ私が祭りの感覚が好きかと言うと、損得と離れているからです。祭りで御輿を担ぐのがエネルギーの無駄とは言われないですね。祭りは無償のエネルギーの放出。都合の善し悪しを考えない空間が、祭りなのだと思います。

生きてはたらく言葉

本明 小島さんはラジオのパーソナリティーとしても活躍されていますが、ラジオで聞いておられる方と、テレビで見ておられる方とでは反応の違いというものはありますか。

小島 テレビで見てくださっている方は、動物園で実際にパンダを見たというような、脳内にあったイメージが実物と合致したときの喜びを全身で表してくださいますね。ラジオの方は不思議で、いきなり話しかけてくださる方が多いです。「この間の話の続きなんだけどね」とか、「あれ、どうなったんですか」とか、もう地続きなんです。すでに対話が、その人の中では始まっている。視覚情報のないところで、音だけで出会う関係というのは、お互いに差し出し合っている状態で出会ってしまうんですね。一番無防備な状態に、すごく近いところで出会っている。映像で出会った関係とは決定的に違います。何なら、生身で出会った関係以上に近かったりもします。それはラジオをやっていて一番新鮮な発見でした。本もそうですよね。声で聞くというのは、非常に身体的に親和性の高い出会い方なのだと思います。

齋藤 子どもが小さい頃に、絵本を読み聞かせすることはすごくいいと言われています。お母さんの声がすっと入っていきながら、イマジネーションの世界に羽ばたくという感じです。それは、すごく子どもの心を解き放ってくれる。最初の頃は自分で読むより、聞かせてもらった方が、心が自由になるんです。やはり声というものが人を安心させる。その次の段階として自分で音読するということがあると思います。

 自分の声なのですが、読んでいる文章自体は自分がつくったものではない。そうすると、『論語』でしたら、孔子が言った言葉を自分が言っていることによって、孔子という偉大な他者が、自分の体の中を何度も何度も通過していくという不思議な行為なのです。だから、自分一人で自分を守ろうとするのではなくて、自分の中に偉大な他者を住まわせるという感覚が音読なのです。自分の中に味方がたくさんいるという感じでしょうか。ゲーテや、孔子、親鸞も何度も音読されて、ある程度の文章を暗唱して引用できた場合、もう自分の中に住んでいるような感覚です。自分の中に他者が住み込んでいる。これが豊かな状態だと思うのです。自分で自分を支えるというのだと、ちょっと心もとないので。

 親鸞の本には色々ありますが、そういう意味でも『歎異抄』は、やはり特別な本のように思います。どんな人の中にも入って、心の深いところにとどまっていくような。聞き書きと言うことで、生きた声というものが残っているのでしょうか。

 

一楽 面白いですね。だいたいお経というものがそうですよね。お釈迦様が自分で書いたものは一つもないわけです。先ほど「祝祭」という言葉がありましたが、感動した人が伝えていったのがお経の始まりです。初めは口伝えでしたが、そのうち形にまとめられて、今のような文献となって残ってきたということですね。今は文字ですけれども、本当はそこに声の響きがあり、もっと言えば感動があったはずですよね。お釈迦様から2500年という時がたっていますが、私も直接、この目でお会いしたことはありませんけれども、お経を通してお会いさせていただくことができる。それは個人の力ではなくて、国も時代も違う、それを大事に伝えてきた人たちが、感動したということを感じさせてもらえるからでしょう。

 そういう意味で、『歎異抄』は唯円が直接聞いたものを、まとめたと言われていますけれども、唯円という人に生きてはたらいた言葉です。親鸞の言ったことの、もしかすると10分の1かもしれないです。しかし、唯円に感動をもってはたらいている言葉という意味では生きた言葉なのです。それが『歎異抄』の響きのもっている、他の本と違う面ではないでしょうか。

 

齋藤 確かに、生きた言葉とそうでない言葉というのはあるように思いますね。『論語』や『歎異抄』などは、その場で語られた言葉ですよね。一度きりの言葉のはずなのに残る。恐らく、この一度きりというのが授業のよさだと思います。授業というのは、生徒と先生の間で生まれては消えていく。芝居もそうだと思いますね。芝居って日ごとに違うし、消えてしまいます。芝居をビデオに撮ったのを見ても、もうひとつなんですよね。その場で消えていく空間の良さというのがありますね。そういう意味で21世紀、再びライブの時代が来たように思います。いまの学生はライブをよく見に行くんですよ。音楽を再生する機械がたくさんあるけれど、ライブがいいと言うんです。それは、人のエネルギーが混じり合う空間があるからだと思うんですよね。

 

本明 齋藤さんが『声に出して読みたい〜』シリーズをお書きになる背景には、移り変わりの激しい世の中にあって、時代を超えて伝えられてきた感動を共有したいということがあるのでしょうか。

 

齋藤 そうですね。やはり古典を共有していると、みんながそれで共感しやすい。『山月記』とか、夏目漱石の『こころ』でもいいですが、趣味がばらばらでも、共有できる文化というものが確保されている方が、お互いに安心感はあると思うんですね。キリスト教圏では聖書がありますが、そういう意味では、日本ではどれと言いづらいですよね。そのあたりを共有していくのが学校なのかなと思いますけどね。

心の土を耕す

本明 今、家庭の中で伝統的なものを受け継ぐことが非常に難しくなってきて、これまで共通の古典であったり、例えば浄土真宗であれば、家族でお勤めをすることなども時代とともに少なくなってきていますね。

 

一楽 生活文化の問題ですね。今は入ってくる情報がすごく多くて、流行に乗ったり、多数派の方に流されやすい。でも本当は生きている現場はそれぞれ違うはずなので、そういうものに乗っていくのは苦しいのではないかと思います。

 私のお寺は石川県の田舎で、農家の方がよくお寺に来られますが、「米づくりは土づくり」ということを、よくおっしゃるのです。土が硬いところには、いくら良い種もみをまいても芽が出ない。でも、ひょっとすると人間の世の中が、土が壊れているかもしれない、という言い方をなさるのです。だから、いい種をまき、いい肥料をやったとしても、それは芽が出るはずがない。

 だから、子どものせいではなくて、生活地盤というか、生活文化をどう耕すかということを、やり直さないといけないところに来ているのかもしれませんね。

弱くて不完全な私を知ろしめる「共に」の存在

小島 私たちの社会で、その土は何であるかと考えるとき、それは祈りの心なのではないかと思います。特定の宗教に限られるものではなく、人は何かに祈らずにはいられないようなものを持っていると思うのです。人間である限り、頭を垂れて何かに祈らずにはいられないことがある。これは私たちに共通するもので、そこに私は信頼を置いているのです。それが今、私にとってみたら人が何を信じるか、という上での土なのだと思います。

 それは私が特別な経験をしたからそう思うのではなくて、限られた人生の中で限られた経験をしていても、どこかに私が不完全で、弱くて、祈らずにはいられない瞬間がある。古今東西、時代を問わず、どんな人の中にも衝動としてあるということ。そこに人間の共通点というか、人への信頼というのを感じられたわけです。

 その意味では教典は自分の中にあるのです。自分が何に欲望を抱き、何に憧れるのか、何を願うのか。時には邪な考えに心をとられることもある。そういう心の動きというものが、人の共通の土なのだと思うのです。だから自分が特別に辛い思いをしているということではなく、人の心というものは、こういうことが起こり得るのだなと。例えば強い怒りとか恨みが湧いたときに、そういう感情が誰にでもあるものであるとしたら、違いはそれを何で表すかですよね。それだけが、きっと人と自分との違いなのだろうと。

 それを私たちは選べるのだと思います。罵詈雑言とか、暴力とか、殺りくで表現できることもできるし、ある人はそれを文学に高め、ある人は宗教に高め、そうやっていろいろな方法で表したのだと思います。ある人は、家族と見つめ合って抱き合うだけで表現するかもしれません。自分には、どんな方法が選べるのだろうかと考えることは、べつに難しい本を読まなくてもできることだと思うのです。

 「それでいいんだよ」と誰かに言ってもらいたいなという気持ちは、私の中にもずっとありました。それを私に言ってくれたのは子どもでした。子どもを産んだときに、あなたがそこにいてうれしいとか、あなたが感じているどろどろした気持ちは私にもあるよ、と言うことによって、彼らが、いわば人間とは何であるかということを私と分かち合ってくれたんですね。

 まさに共に育つというか、本当に二人の子どもに感謝しております。私の場合は彼らが先生でした。

精神というものは言葉を通して自分の中に入ってくる。

 

齋藤 今日はいろいろ学ばせていただきました。西田幾多郎という日本を代表する哲学者が、自分の子どもを亡くされるのですね。幼い我が子を亡くす、その時の心境が書かれているものが残っています。昨日まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、たちまち消えて、壺の中の白骨となるのは、どういうわけであろうかと。もし人生がこういうものならば、人生ほどつまらないものはないと絶望するんですね。その絶望の中で、親鸞の言葉に出遇って救われるというのが、西田幾多郎のエッセーにあります。彼が言うには、後悔の念が起こるのは自己の力を信じ過ぎるからであると思い至るのです。要するに、あの子にもっとこうしてやればよかった、という後悔の念が起きますが、それは自己の力を信じ過ぎるからだと。そのことを親鸞から教わっ
た。親鸞の言葉もそこに引用されています。「念仏は、まことに浄土にうま
るるたねにてやはんべるらん」(『歎異抄』第二章)。念仏を称えて浄土に行
けるのか、地獄に落ちるのか、それは私は知らないと。ここまで自分の力を過信しないということができる人を見たときに、西田幾多郎は、我が子を失った悲しみから抜け出せたといいます。

 時空を超えて、親鸞の言葉とその精神が灯となって受け継がれて、それが自分の中にも灯る。私は精神と心は違うものだと思っているんですね。心は天気のように、移り変わっていく。一日の中でも楽しかったり悲しかったりということがある。この移り変わりが面白いのですが。精神というものは言葉を通して自分の中に入ってくる。例えば武士道の精神とか、それは天気みたいに移り変わるものではなくて、変わらずに受け継がれていくもの。親鸞の言葉というのは、柔らかく受け継がれてく精神の灯のようだなと感じます。

 

自分に先立って悩んだ人がいる。

一楽 親鸞という人は多くの先人たちに学んでいたのですが、そこの根っこには、やはり喜びがあり、感動があるということを、あらためて確認させていただきました。言ってみれば自分に先立って悩んだ人がいる。だから自分の悩みもおかしくないものなのだと。そこを徹底していかれた人だと思うのです。その意味で、先に逝かれた方ばかりですけれども、亡き人とも常に対話をしておられた。

 これは私どもの身近なところでもありますよね。本当に大事な人を亡くしてしまった。確かに、前のようにご飯を食べたりはできませんが、その方の言葉が届いてくるし、お姿を思い出し元気をもらうということがある。つまり、その人は亡くなっても亡くならないのです。今、精神とおっしゃったのは、そこの面だと思います。本当に生きてはたらき続けるものがある。そういうつながりを、たくさん持っているほど、その人の人生に深みが出てくるし、奥行きが出てくるのではないかと思いました。

 そういう意味で、初めにも申しましたが、昨今はどうしても、ものを見る範囲が狭いし、亡くなった人ともつながりにくい。ましてやアミタの世界、浄土を感ずるなんていうことは、もう遠い話で、今生きている私たちと無関係に見られがちなのですけど、今日、齋藤先生がおっしゃってくださったように、念ずるところに、その世界をいただいていくことがあるわけです。 大学で「見たこともないので信じられません」と言う学生がたくさんいます。私は少しずるいですが、パターンを持っていって「じゃあ、君に未来というものはないのか」と聞く。そう言うと「失礼なことを言わんといてください」と反論してくるものですから、「じゃあ、その未来を見えるように出してくれ」と言うのです。すると「無理です」ということになるので、「お浄土も一緒や」と。つかむわけにはいかないけれども、未来がなかったら、今どうするかが決まらない。何を大事に生きるのかが見えないよ、ということを言うと、「ああ、それならちょっと分かります」と言ってもらったりもします。

 だから、お経の言葉というのは無味乾燥に見えるかもしれませんけれども、やはり感動をもって先人が受け継いできた、もっと言えば悩み苦しんできたものとして、私たちに残されたメッセージだということを、今日強く感じさせていただきました。

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