2020年03月13日
Category youtube講義動画法話
現代社会では、会社組織にメリットのある振舞いのできない個人は居場所をなくしそうです。「量的思考」「合理的説明」「評価と競争」「成果と効率」によって生産性を上げ、変化に素早く対応できることが求められますが、まさに「今だけ金だけ自分(我が社)だけ」の様相です。
そんな中で、「私の人生はこれでいいのか」と問い返す声が聞こえませんか。仏教の世界にたずねてみませんか。(真城義麿氏より)
「ともに」ということが「大乗仏教」のテーマになります。しかし、「ともに」ということが現実世界のなかではなかなかうまくいかない。一人ひとりが「安心」しながら他者とつながっていくということが難しい。そういうなかで今回のテーマは「居場所とコミュニケーション」とさせていただきました。
「ともに」ということが成り立っていくことの大事なことの一つが「他者の発見」です。「他者の重要性」とでもいいましょうか。現代社会では、どうしても他者はライバルであったり敵であったり、自分を脅かすものであったりと思いたくなる場面がたくさんあります。他人の眼差しが自分を責めているように感じてしまう。敏感に感じたり、過敏になりすぎると「全面的に賛成してくれない人は、反対なんじゃないのか…?」と思ってしまうものなのです。わずかに違う意見を言っただけで「じゃあもうこの人は違うんだな」みたいな感じですね。否定されたと思ってしまう。
「他者の重要性」を英語でいうと「Significant Others」。「意味のある」や「重要な」という意味です。「意義がある“他者”」ですね。他者の存在意味ということを認めないと、「ともに」ということは成り立っていかないのです。
「人材」という言葉がありますが、この言葉が指すのは「私の都合からみた他者」のことです。つまり、都合に合えば良い人材、都合に合わなければ悪い人材ということですね。そうなると、結局他者は「自分に貢献してくれるかどうか」ということが判断基準になってしまう。例えるならば、会社の社長からみて良い人材(社員)であっても、その人が家に帰ったときに奥さんからみて良い人材か、と聞かれるとそうとは限らないということでしょう。つまり「人材」ということで言えば、見る人の数だけ価値や価値観が変わってくるのです。そういったことを超えて、どの人も私にとって重要な他者なんだと気がついていけるかどうか。「他者」というのは「関係」者ということなんですね。
仏教には「諸行無常(しょぎょうむじょう)」、「諸法無我(しょほうむが)」という言葉があります。「我(が)」というのは、「私」という意味ではありません。「単立存在」ということです。他の影響を一切受けない。また、他にも影響しない。他と全く無関係に成り立つような何かのことを「我」といいます。ですから「諸法無我」ということは、「存在するありとあらゆるものは、皆、関係しあっている」ということです。全てのものはつながっている、関係しあっているという教えです。嫌な言葉に聞こえるかもしれませんが、「私の一番嫌いなあんな人でさえ私のことを支えている」ということなんです。反対に私がその人を支えていることもある。
実はそのことに目が覚めないとなかなかいい関係が成り立っていかないですし、本当の意味で「ともに」ということが成り立っていかないのです。自分にとって都合の悪い人はいない方がいい、都合の良い人を周りに固めたいという心がありますね。
大乗仏教という教えは、「まさに願わくは衆生とともに」という言葉のように、この「ともに」を目指します。「ともに」を目指すけれども、「ともに」を邪魔するものがどこかにある。その「どこか」はどこにあるかと言われれば、それは「私の中」にあるわけです。その「私の中」にある邪魔するものの名前を「煩悩」というわけです。ですから仏教は、ある意味で「煩悩の研究」みたいなものなのかもしれません。
真城義麿(ましろ・よしまろ)
1953年、愛媛県生まれ。大谷大学大学院文学研究科修士課程修了(仏教学専攻)。
東本願寺の関係学校である大谷中学・高等学校(京都)教諭を経て、1997年から2011年3月まで同校校長を務める。現在、愛媛県・真宗大谷派善照寺住職、真宗大谷学園専務理事、日本私学教育研究所客員研究員。
主な著書に『危機にある子供たち』『真の人間教育を求めて』(法蔵館発行)、『成人したあなたへ』『仏教のぶっ』(東本願寺出版発行)、『今、教育の現場では』(真宗大谷派難波別院発行)など多数。