2020年05月15日
Category 対談
人は、言葉によって救われもするが、言葉によって迷ってもいく。これを知るからこそ、仏教は言葉を大事にしてきた。
言葉は、書物の中だけでなく私の中にもあり、われわれの人生の物語を紡ぎ出している。
厳しい社会状況や自然災害が続く今、私たちを突き動かす大きな力を持つ「コトバ」「物語」について共に考えてみたい。
この抄録は2018年6月10日に真宗会館で開催された「サンガネット特別シンポジウム」の抜粋です。
若松 英輔(わかまつ・えいすけ) 氏
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授批評家、随筆家
1968年、新潟県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。2007年『越知保夫とその時代―求道の文学』で第14回三田文学新人賞、2016年には『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』にて第2回西脇順三郎学術賞、2018年『見えない涙』にて第33回詩歌文学館賞を受賞。2013年から2015年にかけて、『三田文学』の編集長・読売新聞の読書委員など歴任。『サンガ』『アンジャリ』でも執筆する。主な著書『生きる哲学』『霊性の哲学』『幸福論』。
田村 晃徳 (たむら・あきのり)氏
親鸞仏教センター嘱託研究員、田尻徳風保育園園長
1971年、茨城県生まれ。茨城県日立市専照寺候補衆徒。立命館大学文学部を卒業。大谷大学大学院文学研究科博士後期課程を修了。大谷大学任期制講師、武蔵野大学大学院非常勤講師などを務めたのち、真宗大谷派親鸞仏教センター嘱託研究員。親鸞聖人をはじめとした仏教思想、日本近代思想の研究、宗教と学問の関係などの研究を行う。社会福祉法人慈光会田尻徳風保育園の園長として、仏教をどのように子どもたちと学ぶかについて、さまざまなかたちで取り組む。
田村 今日は、仏教、言葉、物語など、単なる文字にとどまらない、私たちを突き動かす生き生きとした言葉について考える時間になればと思います。
さて著書を拝見しますと、若松先生の文章はとても透明感があり読みやすく、肌になじむという印象です。ところが先生のエッセーを読んでいて意外だったのは、国語はお得意じゃないとのこと。どういうことでしょうか。
若松 はい、苦手です。教科としての国語というのは、出題者の解釈をなぞることが求められるので、昔から嫌いでした。実は僕の本も大学のテストでよく使われるんですが、僕自身が正答できません。そもそも本は、読む人によって受け取り方が全然違いますよね。また、人は日々変わりますから、同じ人が同じ本を読んでもいつも同じに感じるわけではない。誰かの意図を推察して読むことと、自分が書物から読まなければいけないことというのは、まったく別だと思います。
また、書くことに関しても同じで、正しい読み方などないように、正しく書くとか、上手く書くということが、人は実はできないのだろうと思います。
僕も書いてみて初めて自分が何を考えているかを知るので、あらかじめ自分が考えていることを書くのではありません。書くことを通して自分が何に直面していて、何を大きく深く悩んでいるのかを知るわけです。
田村 先生は作品を書かれるとき、じっと待つことが多いですか。それともどんどん書き進められるのでしょうか。
若松 僕は圧倒的に待つことが多いですね。僕にとって書くという行為は、待つこと、受け取ることなんです。だから、自分の中が空になってこないと言葉を受け取ることができません。
僕はカトリックのクリスチャンですが、例えば「祈る」ということ、それは自分の考えていることを大いなるものに届けることではなくて、自分の中を空にして、大いなるものの言葉を受け取ることだと感じています。
仏教の念仏というのも、思いを届けるだけではなく、どれだけ受け取れるかが重要なのではないかと察していますが。
書くという行為もそれと似ていて、自分の中に書きたい思いがいっぱいあると、実は文章は書けない。そうではなくて、自分の中が空になっていく。空になっていったところを言葉が埋めてくれる。言葉が連なって世の中に出ていく、そういう感じなんです。
田村 なるほど、興味深いです。
では、私たちは「自分の言葉」という表現にすごく関心を持ちますが、先生はどのようにお考えでしょうか。
若松 まず、「自分の言葉」というのはありません。言葉は誰にも帰属しない。それを私の言葉だと言った途端に意味やはたらきがものすごく小さくなります。
言葉は、自分で理解しているよりも大きい力を持っています。言葉は、世界の在り方や世界の意味、人間の生きざまなどを根本から変えるほどの力を持っています。そういう、ある意味ではとても恐ろしいものだという認識がないと、言葉を扱えないと思います。
田村 われわれがつい「自分の言葉」と言われると反応してしまうのは、どこかで自分の話す中身が空しいのではないか、と思ってしまうからかもしれません。まずはその認識を改めないといけないですね。
若松 人は自分の大切な人に、いろんな物を贈りますよね。例えば結婚指輪などもそう。物を贈ったり贈られたり。けれど物は無くなったり壊れたりするかもしれない。
本当に壊れない、朽ちることのないもの。それは言葉です。人は物を贈るごとく人に言葉を贈ることができて、言葉を受け取ることもできるんです。人はそのときにしか発することのできない、二度と発することができない言葉を贈れます。
田村 そうですね。私自身、言葉を「贈られて、受け取った」ことを思い出すと、いまだに自分の中で生きている言葉というものがありますね。
若松 「私の大事な言葉は、この言葉です」と言える、それは素晴らしいし、それが強く自分を支えることもあると思います。深い気付きを与える言葉もあるでしょう。日々の生を生き、そこを照らす言葉というものに出あえるといいなと思います。
そうした、人生を根本で生かしてくれる言葉というのは、実はあまり難しい言葉ではないと思います。すごく平凡で凡庸で、別の誰かに話したら「えっ? 何、その言葉」と言われるような言葉でしょう。
だからこそ受け取る側も、一見凡庸な言葉であっても、素朴で力強いものをしっかり受け取らないといけない。
田村 受け取るということ、聞くということは、実はとても創造的なことなのですね。
声にならない言葉を、耳の底で聞く
若松 そうですね。例えば『歎異抄』に、唯円が耳の底で聞いたという言葉があります。耳の底で聞いた声にならぬ言葉を、唯円はどうにか後世に伝えようとする。私には、これが『歎異抄』を書くことになったいちばん大きな動機に思えます。
人は目で見る言葉、耳で聞く言葉をもちろん記憶することもできます。けれども皆さんのような親鸞ととても縁の深い方は、耳の底で聞くということ、そしてその言葉を自分のこころの奥底に生かしておく、その大切さをご存知です。
田村 仏教では「諦かに聴け」という言葉や、「毛穴から入る」という表現もあります。また、言葉を大事にする仏教では、聞くことをずっと大事にしてきたのですね。「聞く」とは本質を聞いてうたがわない心だと親鸞聖人は言われます。
若松 自分が言葉を発するときには、人の言葉を聞くことはできないですよね。例えば私の捉え方では、「願い」というのは自分の思いを大いなるものに届けようとすることで、「祈り」というのは先ほども触れましたが、あちらの言葉を受け取ること、聞くことです。自分のことを届けようとしている間は、聞くことはできないですよね。
自分が何かしようと思っているときには、自分が何をされているかに人はとても鈍感です。だから、私があの人を助けようと思っているときには、自分がその人に助けられていることには気がつかない。その人がいてくれているおかげで自分があるということに気がつかない。ここはすごく意識したいところです。