彼岸からの名告り|真宗会館コラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2021年09月19日

Category 法話

彼岸からの名告り

お彼岸とは、昼と夜の長さが同じになる春秋の中日(秋分の日、春分の日)をはさんで、前後一週間のことを言います。お彼岸の「彼岸」という言葉は、私たちが生きる迷いの世界を「此岸しがん」と言うのに対して、此岸を超えた覚りの世界である阿弥陀仏の「浄土」を指す言葉です。

お彼岸を迎えるにあたり、私たちが問い直さなければならないことを考えていきます。

お父さんは

お母さんに怒鳴りました

こんなことわからんのか

お母さんは兄さんを叱りました

どうしてわからないの

お兄さんは妹につっかかりました

お前はバカだな

妹は犬の頭をなで

よしよしといいました

犬の名はジョンといいます  

(杉山平一詩集『希望』「わからない」より)

 

 みんな、「こんなことわからんのか」とか「どうしてわからないの」とか「おまえはバカだな」などといって相手を見下して批判してばかりいます。さも自分はわかっているかのようです。最後に「バカだな」といわれた妹は、犬の頭をなで、よしよしといいました。相手をわかっていないと批判する連鎖はここで断ち切れて、まったく違った世界が開かれてまいります。

 ほっとします。

 犬はジョンと名づけられていますが、実は、私たちに向かってジョンと名告ることで、ギスギスした世界とは異質な、豊かな温かい世界を開いてくれているのです。

 私たちの日常は、いかにわかってない、わかっていないの連鎖でありましょうか。そのために、いかに傷つけ合い自分やまわりを捨てていることでしょうか・・・。

 それを呼び覚ますジョンという名告りは、誠にリアルであり、私たちの存在の奥底に響いてまいります。

  今年も春のお彼岸がやってまいりました。お彼岸のお中日には太陽が真西に沈みます。赤々と沈む入り日には、頭の下がる厳かな気持ちになるから不思議です。

 お聖教に「生死の彼岸に度せんと欲わん者」(『真宗聖典』三八〇頁)とありますように、私たちは迷い多き世界を超えて、深く豊かな世界に出会わずにはおれない祈りにも似た願いを、心の奥底に抱えています。

 彼岸とは、「生死の彼岸」とお説きくださいますように、この迷い多き世界に向かってその彼方から呼びかけてくださっている阿弥陀さまの本願の世界をいいます。いわば、彼方よりジョンと名告ることで、私たちにその世界の確かな在りかを伝えてくださっているのです。

 

 私たちはその彼岸にふれることで、もつれ糸のもつれの原因、つまり無明・煩悩の身の事実が知らされ、解きほぐされ、新しい天地に生きる身を回復してまいります。

 日ごろ私たちは、自意識で考えた自分、自意識で思い描いた世界を生きる以外に生きるべき世界に出会わず、窒息しそうなのです。「俺はもうダメだ」とか「先行きまっ暗だ」とか、すでに答えを出して生きています。

 これは、一つの世界だけに生きているからです。ですので、その生き方を転換してくださいと、諸仏はかねてより呼びかけ、勧めてくださっているのです。

 自意識に閉ざされた一つの世界のみに生きることから、阿弥陀の世界すなわち彼岸から照らされ、限りなく呼び覚まされてこの此岸を生きること、つまり彼岸と此岸という二つの世界に生きることへの転換であります。

 現代人の抱える最も深刻な問題は彼岸の喪失にあります。したがってそれは、照らされてある此岸の喪失でもあるのです。人の世は大地に根づかず、平板で際限なく無意味に過ぎ去っていくのみとなります。

 今こそあらためて、出会うべき世界を彼岸として見いだし、置かれた境遇を呼びかけられてある此岸として生き通された諸仏の智慧に学び、限りあるこの人生を限りなき阿弥陀のいのちを生きるものとして、深く豊かに全うしたいと願わずにはおれません。

2016年春版『彼岸』(東本願寺出版より転載」

 

大江憲成(おおえ・けんじょう)氏

九州大谷短期大学名誉学長。真宗大谷派觀寺住職。著書に『人生を丁寧に生きる―念仏者のしるし』『暮らしのなかの仏教語』『浄土からの道―二河白道の譬え』(東本願寺出版

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