2022年04月08日
Category サンガコラム
親鸞聖人
高校受験を控える娘。顔を合わすたび、ついつい「勉強しなさい」と言ってしまう。「今やろうと思ってたのに! やる気なくしたぁ」と娘。そんな態度にまたイラだち「いいから勉強しなさい!」と声を荒げる。よく見聞きする光景を、今まさに体験している。「子どもには将来苦労してほしくない」と思うのは親心としては当然のこと。しかし、子どもの将来の苦労とは何だろうか。
近年の青少年犯罪の報道を見ると、日常的に不良行為を行なっている青少年の犯罪だけではなく、日ごろ学業優秀な青少年、俗にいう「エリート学生」の犯罪も目につく。そこには「エリート」ゆえの悩み、成績至上主義の中での孤独や劣等感、将来の不安や苦しみ、悲しみを抱えて生きてきた「縁」があり、犯罪はその「縁」によるものだったのではないか。また、不良といわれる青少年たちだって同様に、その行為の背景には色々な「縁」があるのではないかと思う。それは生まれ育った家庭や社会の価値観に追い詰められた結果なのだと。そう思うと罪を犯した者ではあるけれども、被害者でもあるのではないかと思われてならない。
「お寺の掲示板」の言葉は、親鸞聖人と弟子の唯円との問答を記した『歎異抄』の一文である。ある時、聖人が唯円に「私が言うことを信じるか」と尋ね、唯円は「信じます」と答えた。すると聖人はこう尋ねる。「例えば、私が人を千人殺したら浄土に往生できると言ったらどうする」。「私には千人どころか一人も殺すことなど出来ません」と唯円。「ではなぜ私の言うことを信じると言ったのだ。…これで分かっただろう。どんなことでも自分の心のままにどうこう出来るのならば、浄土に往生するために千人殺せと言われたら殺すのではないか。しかし一人として殺すことが出来ないのは、ただ人を殺すという縁が備わってないからである。自分の心が善いから殺さないのではない。また、いくら自分の心が善いから一人も殺さないと思っていても、百人千人殺してしまうこともある」と聖人の仰せによってこの問答は終わる。
青少年に関わらず、「縁」によっては心が善かろうが悪かろうが、どのようなことも行なってしまうのが私たちである。私自身も「勉強しなさい」という娘への一言が、「将来苦労してほしくない」という親心が、もしかしたら娘を深い孤独に追いやっているのかもしれない。娘の将来の苦労を考えるよりも、今を生きる娘のことを考えなくてはと思いながらも、親として勉強して欲しい気持ちは変わらず、娘と向かい合い葛藤する日々である。
本田 彰一(ほんだ しょういち)
東京都墨田区・本明寺