2023年05月01日
Category サンガコラム
宮城 顗
十数年も前のことになりますが、私は一度だけ妻の出産に立ち会うことができました。
出産って、すごいですね。「うちの妻って、こんな声を出すんだ!」とビックリ。私はもう、オロオロしているだけです。母親の身体から頭を出して産まれてくる子ども。オギャーという泣き声。「お父さん、抱っこしてみる」と助産師さんから勧められますが、こっちはたじろいでしまって。手も震えっぱなし。
産湯を使って、妻の隣に子どもを寝かせます。
何か気の利いたひと言でも掛けなきゃって思うんですが、こちらはオロオロしているものですからいい言葉が出てきません。出産を終えた妻に何て声を掛けますか。
私が何と言ったかというと、これは思い出すと自己嫌悪に陥るのですが、「痛かったろ?」と。それしか出てこなかった。けれども、その時に妻が言った言葉が忘れられません。
「ううん、もう忘れた」
痛かったと思うんです、そばで見てたから。これほど痛いことはないだろうと思うんです。でも妻は、「忘れた」って言いました。
その時の妻の表情。出産の後ですから顔も紅潮してほっぺたが赤くて。それでまた生まれてきた子どもを見る、そのやさしい瞳。その時に私は、「ああ仏さまに会ったな」と思いました。 同時に、おそらく妻は、生まれてきた子どもに仏さまを感じていたのだと思います。自分がしたこと(出産)、その痛み、苦しみ。生まれてきた子ども(仏さま)に出会ってそれが吹き飛んでしまった。それが「忘れた」という言葉になったのだと思います。
さて、けれども、私たちの日常は、「忘れられない」ことだらけなのです。自分がしたこと、それが「善いこと」であればあるほど。「私はこれだけ善いことをやったんだ(なのにあなたはどうして……)」。その思いが争いを生み出すのです。
私たちの人生というものを振り返ってみたとき、そこには必ず「争い」ということが付いて離れません。家庭の中においても、国と国との間でも。
その根底には、「私はこれだけ善いことをやったんだ」という私たちの思いがあるのです。それがぶつかり合うのが「善と善との争い」なのでしょう。
私たちの人生において、「私はこれだけやった」「私こそが善だ」という私の思いを照らし出し、気づかせてくれるはたらき(仏さま)に出会っていくことの大切さ。そのことを教えてくださっているのが、表題の宮城顗先生の言葉なんだと思います。
吉元 信暁(よしもと のぶあき)
九州大谷短期大学教授