2024年10月02日
Category 終活
「もうこの歳になると、あと何冊の本が読めるか、できるだけ読みたいと思うのだよね。」と、常に鞄パンパンに、本を詰め歩いていた先輩がいた。その先輩が亡くなった年齢に、自分も近づいている。この言葉を思い出すということは、自分も先輩と同じ気持ちになっているということだ。
平均寿命の半分は、とうに過ぎている。そう考えると、先送りにしていた「死」が、現実味を帯びてくる。真剣に読書を始めているというのが、自分の終活なのだろうと思う。
終活という言葉は、ここ数年で、日常語になった。もとは、十数年前、ある週刊誌から発せられた言葉が、ここまで浸透したらしい。 終活の主な事柄は、生前のうちに自身のための葬儀や墓などの準備や、残された者に迷惑がかからぬよう生前整理、残された者が自身の財産の相続を円滑に進められるための計画を立てておくことなどが挙げられる。概念はこういうことだ。
言葉が流行るということは、その言葉に相応する状況があるということだ。少子高齢化、個人化、コミュニティの崩壊。年金問題。孤独死。情報過多による意思決定の困難。こんな状況が、終活という言葉に、多くの人を引きつけたのだろう。こういった不安によって、終活という言葉に、多くのニーズが集まったのだと思う。
しかし、人間は、一つ言葉を持つと、その言葉に縛られていく。そう龍樹菩薩※は説いている。
メディアや企業や役所は、高齢者を中心に終活をしきり推奨しているが、いかがなものであろう。死に向かっていることは、今に始まった事でもないし、「死」に魅入られたら、年齢は関係ないのでないか。死は誰にでも訪れることだし、誰にとっても最大の問題だろう。
そんな人生最大の問題だからといって、間違ってはいけないのは、真宗の終活なる方法があると思ってしまうことだ。真宗の終活という方法はない。 ただ、自身の死に向き合い、そこから生きることを見つめ続けた先人が、仏道という歩みを残している事は確かなことだ。
それは、自分自身を自分自身で生き切っていった方々の歴史でもある。その歴史に安心をいただくということはあるけれど、よりよい生き方や死に方を期待してはいけない。それは煩悩以外の何物でもないとお釈迦様は説かれている。
だから、この終活という言葉が、人々に受容されてきた背景が、真宗(仏教)の課題であるというところから考えてゆきたい。 終活という言葉が受容された背景には、孤独と虚しさ不安といった問題が横たわっている。何から何まで、自分一人でやらなければならないのか。人の世話にならずに生きてゆけるのか。一人で死んでゆかなければならないのか。
はっきり自覚はしていないけれど、そんな声なき声に、終活という言葉は後押しされている。死を間近に感じつつ、孤独・虚しさを超えていきたいという願いが、終活という言葉が受容された背景にあると感じる。 そんな人生最大の課題を、蓮如上人※は、後生の一大事といわれた。
※龍樹(150-250年頃)・・・インドの僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
※蓮如(1415~1499)・・・室町時代の浄土真宗の僧侶
50~80代の8割の人は終活に興味がある一方、継続的に終活を行っている人は2割。終活に「大変興味がある」人だけに絞っても、継続的に終活を行っている人は4割しかいない。こういうデータがある。
あるご門徒さんが、終活という言葉を聞くと、早く死んでくれと言われているようで、嫌だよと言っていた。本当は、皆、本格的に死を見すえることは避けたいのだと思う。先のデータを見ると、終活という言葉だけが先行しいていて、その言葉に落ち着かない中高年の姿が見えてくる。だからこそ、今、蓮如上人※が御文の中で繰り返される「後生の一大事」を、いただきなおすということが迫られていると思う。
Oさんというご門徒さんがおられた。Oさんは、長い間、お連れ合いの介護をしていた。そのお連れ合いが、Oさん90歳の時に亡くなった。介護生活の疲れか、お連れ合いが亡くなってすぐに、心臓を患って、常に家族の介助が必要になった。半寝たきりの生活が半年を過ぎようとした時、しきりに「お迎えが来ないか、お迎えが来ないか」と言うようになった。
おじいちゃんも居なくなって、自身の介助が必要になって、どうにかなってしまったかと思い、家族が寺に相談にこられた。
ばあちゃん、「お迎え来ないか」と一日中、泣いている。お迎えのことなら、お寺さんだと思って来た。ばあちゃんに何か話をしてくれないかと頼まれた。
それから、週に一度、ばあちゃんの所に通わせてもらって、いろいろな話をした。ばあちゃん、介護の前は、よくお寺参りに来ていた。ばあちゃんは、お迎えは仏様任せと散々聞いてきた。それを告げると、ばあちゃん、「そうだった。」と手を合わせていた。
それから、すぐにコロナウィルスが流行し始めた。自粛という言う言葉が、ちらほら目立ち始めていた。だから、ばあちゃんに、「コロナという病気が流行っているから、当分来るのをやめておこうか」と言った。そしたら、ばあちゃん「コロナ怖いね、テレビで見たよ。怖いから、お寺さん、当分来なくても大丈夫だよ」と言った。
あれだけ、「お迎え来ないか」言っていた、ばあちゃんも、いざ命に関わる病気が流行ってくると、いのちが惜しくなるものだなと思った。
人間は「いざ」ということを先延ばしにしたいらしい。それで、空しいとか不安だとか寂しいといっている。「いざ」という時が決まらないのだ。だから蓮如上人※は、口酸っぱく、後生の一大事と、いわれているのではないか。そんなことを、ばあちゃんから教わった。
後生とは、死んだ後ということである。死んだ後の一大事とは、今生きている時の一大事である。今、不安・孤独・空しさを超えてゆくということがなければ、一体いつこの問題を解決するのか。そう蓮如上人※は、後生の一大事という言葉で教えてくださっている。この現在の不安・孤独・空しさの裏を返すと、いま・ここでの真の満足ではないか。
天親菩薩※は、『浄土論』で、「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」と頌(うた)われている。その偈(うた)をもとに、親鸞聖人※は、「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」とご和讃されている。
天親菩薩は、菩薩道が空しく終わらないと頌われている。それに対して、親鸞聖人はもっと積極的に、阿弥陀様のご本願との出あいをご和讃されている。阿弥陀様の本願にであって、いま満足があたえられて、ここに人生の空しさを超えてゆける道が開けたと、感動されている。
※天親(400~480年頃)・・・インドの僧。親鸞の思想に影響を与えた七人の高僧のうちの一人。
※親鸞(1173~1262)・・・浄土真宗の宗祖。
Iさんは、もとは名古屋別院の近くに住まわれていた。伊勢湾台風で、家屋が流され、親戚を頼って名古屋市内に越されてきた。被災した幼いIさんの心に残っている風景は、名古屋別院のお朝事であったという。そこで聞かせてもらった『正信偈』※が、疲弊した心に染み入ったという。
そんな話をしてくれたIさんは、末期の癌を患っていた。余命が告げられた当初は、その現実が受け取れず大いに悩んだ。しかし、いつまでもくよくよしてはいられないと、終活を始められた。
まず、家族に迷惑をかけないように、身辺の整理と相続の手続きをしていた。お墓の用意、お葬儀とお寺の手配。そして自分がやりたいこと、旅行、趣味、家族や友人と十分過ごされた。いわゆる悔いのない終活をしたのだとIさんはいう。しかし、Iさんは「余命を宣告されて、やることはやってきたし、やれたのは嬉しい、しかし、これで満足なのだろうか。不安でたまらない」と、病床でうったえるのである。
いくら、終活をして、自分の周りを固めたとしても、空しさが残った。そう、Iさんの話が聞こえてきた。蓮如上人※は「まことに、死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も、財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず。」(真宗聖典 第1版772頁・第2版934頁)と世間のものは全て死の前では、空しくなると述べられている。
Iさんは、死を目前として、自分が生きて、死んでいくことに、本当の意味をは何かと呟いていた。それは、終活をされた中で、確かなものとは何か、確かに生きるとは何かという問いに憑(とりつ)かれたのだと思う。
続けて、蓮如上人は、「されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。これによりて、ただふかくねがうべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり」と自分全体を問いただされるような問題に立たされた時、後生をねがい、たのむべきは、阿弥陀如来であると言い切られている。
※正信偈・・・真宗門徒が朝夕お勤めする親鸞が書き記した漢文の詩。
以前「終活と宗活」という文章で、「宗活」という言葉を出させてもらった。「宗」という字は、人生の中心という意味であり、そこから転じて人生の拠り所という意味になる。 だから、「宗活」とは、特定の宗教を信じる、宗教活動のことを指すのではない。
本当のよりどころ(宗)を求め、自ら見出すことである。それは、「終活」を否定するものではなく、「終活」を突き詰めて行くと「宗活」、(拠り所を見出してゆくという活動)になるではないかと考えている。
そのことを、Iさんから教わった。死の前では、なにも間に合わない。すべてが空しい。自分とは何か、空しさを超えるとは何か。これを後生の一大事というのではなかろうか。
蓮如上人※は、「後生の一大事を心にかけて」と仰っている。この「心」とは、仏様のお心である。人間が自らの眼で、死や空しさに真向かえば、心がつぶれてしまうし、不都合なことはなるべく避けて通りたい。
だから蓮如上人は、その言葉に続けて、「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。」(真宗聖典 第1版842頁・第2版1011頁)と仰っている。
南無阿弥陀仏のお念仏によって、頂戴した心によって顕かになったのが、後生の一大事ではないか。「人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なり」(真宗聖典 第1版771頁・第2版933頁)という心は、人間の関心からは出てこない。人間は、世間の楽しみしか知らないからである。その世間一般の楽しみを欲望という。
以前、地域の終活セミナーでお話をさせていただいた。その際、「死に向かっての人生の満足とは何ですか」と問いかけたことがある。「ピンピンコロリ。できるだけ健康で、迷惑をかけずに人生を楽しく」皆口々にこういわれた。いじわるながら、「本当にそれで満足ですか?」と念をおすと、皆「うーん」と首をひねって、答えに詰まってしまった。本当の満足って何だろうか。欲は知っていても、人間は真の満足を知らないのではないか。【真宗の終活2-(2)につづく】
雲井 一久(くもい・かずひさ)
横浜組真照寺衆徒
真宗本廟教導
産業カウンセラー
著書『終活と宗活』同朋選書