2019年05月21日
Category 親鸞フォーラム
2017年3 月19日、丸ビルホール&コンファレンススクエア(東京都千代田区)を会場に「親鸞フォーラム―親鸞仏教が開く世界」が開催されました。本抄録は「社会× 共育× 仏教-育つ力、育む力―」をテーマに行われたシンポジウムの内容です。
小島 私たちにとってすごく難しい行為の一つに「差し出す」ということがあると思います。差し出すというのは、大げさな自己犠牲ではなく、例えば、先ほどのお話にあったように、面白くないジョークに笑ったり、全然話が合わない人とでも雑談してみる。これも差し出す行為です。差し出すのは怖いことです。自分を開きますし、相手に委ねることですから。何かを失うのではないか、奪われるのではないかと思ってしまう。
でも、私の場合は怖くないんですね。タレント、エッセイストというのは、呼ばれてもいないのに、お茶の間に映り込んだり、文章を書いたり。そういう仕事を生業にしているわけで、それも差し出すということの一つです。差し出せば、けなされることもあるし、ないがしろにされることもあります。でも、それによって失うものは、実はあまりないのだなと気付いたのです。
差し出すことによって人さまの役に立てれば、それがもちろん一番いい。でも、そうでなくても、ただ差し出すという姿勢によって、自分が他者を信じることができる。実はそれが一番幸せなことなのではないでしょうか。本当に誰が信用できるかというのは分からない。自分の家族や、自分自身との折り合いもそうです。でも、こんな自分でも、精いっぱい胸の内にあるものを差し出そうという気持ちで、人に話し掛けたり、あるいは、そのように差し出してくれた人の言葉に精いっぱい応えるということの中から、人への慈しみやいたわりのようなものは生まれてくるのではないでしょうか。
差し出しても何も奪われないんだなというのが…