あなたにとって彼岸とは―六道輪廻を生きる。 | 真宗会館コラム | 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館
お問い合わせ アクセス

法話

あなたにとって彼岸とは
―六道輪廻を生きる。

あなたにとって彼岸とは</br>―六道輪廻を生きる。

法話「あなたにとって彼岸とは―六道輪廻を生きる。」
三橋  尚伸氏(真宗大谷派僧侶・産業カウンセラー)

三橋 尚伸氏

 皆さんはお彼岸をどんなイメージをもって迎えられているでしょうか。
 多くの日本の方は、お墓参りに行き手を合わせる日だと思われているのではないでしょうか。あるいは、少し仏教の勉強をされると、お釈迦様が教えてくださった苦しみが一切ない「覚りの世界」だということを思い浮かべるか方がいらっしゃるかと思います。
 今日は浄土の教えでは彼岸に生きるってどういうことなのだろうということを考えていきたいと思います。

 お釈迦様は「苦しみの世界から解脱して、苦しみが一切ない静かな寂静の世界に行きなさい。」と教えてくださっています。そのために正しく見る、正しい生き方をするという方法をも示してくださっています。けれども凡夫である私たちには到底できない内容ばかりです。そもそも、この世の中のすべてが「苦」であることを、私たちは分かっているでしょうか。体が動いて、物を食べる気力もあって、普通に呼吸ができて、お金もまあまああれば、この世が苦であることすらわからないんですよ。「この世は楽だ」とさえ思ってしまう。けれども、お釈迦様はそうではないと言っているのです。

 チベットには六道輪廻図というものが伝わっています。六つの有り様「六道」が説かれています。釜茹でされたりする様子が描かれる「地獄」。物が食べられず飢えている「餓鬼」。動物の世界「畜生道」。ケンカばかりして争う「修羅」。そして「人間界」と「天」。この六つを「生まれては死に」を繰り返している私たちに、お釈迦様はこの世界から抜け出し「覚り」の世界を目指しなさいとおっしゃるのです。

 皆さんは苦しい時は原因探しをすると思います。「あの時のあの生き方が悪かった。だから嫌なことが自分に起こったんじゃないか」と。人間関係などうまくいかないと原因を探して、今の苦しみを納得しようするのです。苦を失くそう、原因を探して解決しようと一生懸命右往左往しているのです。だけれどもお釈迦様がおっしゃったように、この世の中はすべてが苦なんですよ。一切皆苦です。「六道」から簡単に出られると妄想しているのが私たちの現実です。

 まず、浄土の教えでは「あなたはお釈迦様のおっしゃったような立派な生き方ができる人ですか?」と問います。「あなたはいったいどんな人ですか」と問われているんです。ちょっとの努力で苦を解決できると思い込んでいる「私」。極悪な事件を見れば「私と違う」と正義に立ってしまう私。「それがあなたですよ」と教えてくれるわけです。
 聖覚という親鸞聖人の兄弟子に当たる方は、私たちのありようをわかりやすく書物にかかれています。

わがみは罪悪生死の凡夫、曠劫(※)よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。(『唯信抄』)

 

「私は自分のことを何もしらない生死を繰り返している凡夫。とんでもない長い間ずっと六道の中に沈み、どこか次々に生まれ変わって、この中を出て離れる縁がありません。厳しいけれど、それがあなたのありのままの姿ですよ」
 続いて次のようにも述べられます。

多生曠劫、流転生死のよるのくもにまどえり。
あるいは、わずかに霊山・補陀落の霊地をねがい、あるいは、ふたたび天上人間の小報をのぞむ。(『唯信抄』)

 

 「とんでもなく長い時間をかけて多くの生まれ代わりを繰り返して、六道の中をへめぐって、夜真っ暗な時に雲が出ているかもわからなほどの「闇の中」を迷っているのです。そして、苦しい時には観音様のお浄土までもすがってしまう。嫌だと言いながらも、また天や人間に生まれ変わることを望もうとしているのでしょう。それがあなたのありのままの姿ではありませんか?」

 こう書かれてしまっています。ちなみにチベットやネパールあたりでは、次に生まれた時には人間に生まれたいってお願いします。おそらく同じようなイメージをお持ちの方もいると思います。それは、今よりももうちょっといい環境に生まれたいと手を合わせているんです。欲がからみ、結局は、人間か天に生まれたいんですよ。だから「救われたい」ということ自体思っていない。三橋氏1

 「地獄」という絵を見せられれば「苦」はわかります。しかし、それは他人事ではなく、私たちも大きな災害にあい、火事や事故にあって死ぬかもしれない。食道がんで自分の唾液が飲み込めなくなるかもしれない。政治や社会の状況によっては、今の日本は輸入がなくなれば食べたくても食べられない「餓鬼道」に陥ります。理性で押さえ込むことができず自分の命のために、他人の物をとってでも生きようともします。「畜生道」です。気に入らなければ、他人を嫌い、何かされたら戦いさえもします。「修羅道」です。六道の中にいることは間違いありません。今皆さんはどのあたりにいるのでしょうか。例えば、姑と大喧嘩していたり、憎んでいたりしたときは修羅道を生きています。毎日毎日どこかを生きています。そういう「私」だと自覚をしてくださいと、浄土の教えは示してくれています。そして、すべての人が救われるために、五劫という時間をかけて私の名前を呼べばいいんですよって結論をだされたわけです。五劫という時間を使って結論をだしてくださった阿弥陀仏を信じるということなんです。阿弥陀となって成仏をする物語を信じるということです。それだったら私たちにもできるかもしれない。でも時々忘れるんですね。今日は阿弥陀さん。明日はどっかの神社。だから生き方も身の自覚も定まらないのが私ですということです。そういうことを考えるのが彼岸のご縁なんですよ。亡くなった方のご縁ですからね、きっちり考えていただこうと思います。

 皆さんの「天」は、どういうイメージでしょうか。テレビを見ていると誰かが亡くなると普通に、司会者だろうが、参列の方だろうがみんな「天」にいったからめでたいかのようにおっしゃいます。仏教では天に行きましょうとは言いません。六道の中だからです。地獄を生きることと何も変わらない。天のてっ辺には「頂点」があります。限度があるから落ちるんですよ。そうすると今度は不安が起こる。自分をひきずり落とそうとしてるんじゃないかと、信じられなくなるんです。皆さんも同じだと思います。会社を作りあげれば、付いてきた部下に不安を持つのではないですか。「自分の会社を乗っ取ろうとしているんじゃないか」と安心できないんです。そこが「天」です。欲は留まらないし、大きな不安、落ちる不安に落とされる。まさに六道ではすべては一切皆苦なんです。お釈迦様はうそは言っていないんですね。

 では、私たちはどうすればいいのか。一つは阿弥陀さんの名前を呼ぶだけでいいんです。それでも信じられない私たちであることを祖師方は見通してわかってくださっています。歎異抄の第2章に書かれている有名な部分ですね。

 

たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、といふ後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(『歎異抄』)

 

 「法然上人にだまされて念仏して地獄に落ちとしても私は後悔しません。その理由は、あるゆる努力ができて仏になれる自分であれば、だまされたのならば後悔するかもしれない。しかしどのような行もできない私は、この地獄こそが生きて死んで、腰をおろす居場所なのです」

 がんばって六道から出ろとはおっしゃっていない。地獄こそを生き場所にできた時には、地獄イコール浄土になるんです。転ずるという救われ方ですね。解決ではなく、現実の中を居場所として生きてください。そしたらそこがあなたの浄土になるんです。 “ここ”があなたの生き死にする場所で、腹をくくって腰おろしなさいという教えです。苦しいものがなくならない。今日のお彼岸を縁にして、六道の中を生き死にすることが実は浄土を生きるということだった。そこが本当に、凡夫である私たちが救われるには、そこしかないというふうに、ちょっとだけイメージを書き換えてもらいたい。決して遠くにあるきれいな天国が阿弥陀の浄土ではないのです。安心してこの六道を繰り返していいんですよ。それが親鸞聖人が教えてくれる救われかたです。現実の意味が変わる。
 このことを、時々ちょっとだけ思い出してくださったらと思います。

 

※「曠劫」の「劫」は時間のことです。私たちでは考えられないような時間の長さということです。

関連記事 Related Articles