2016年06月15日
Category 法話
「如来のお育てにあずかる」
日曜礼拝法話
中野 誠二氏(北海道・大昭寺)
かつて信國淳という先生が「わかってもわからんでもいいから、お念仏申しなさい。そしてお念仏によって育てられなさい」とおっしゃいました。最近ではあま り聞かなくなってしまいましたが、真宗門徒はお寺に参るとか仏法を聴聞することを「如来のお育てにあずかる」という言葉で伝えられてきました。人間というのは仏様のはたらきによって、また如来によってお育てにあずかることが大事だと。
では、「育てられる」とはどういった意味なのでしょうか。自分が聞法する ことによって、また仏教を学ぶことによって賢い人間になる、知恵才覚の優れた人になるという、また知識、教養に溢れた人間になる、あるいは立派な人間に なっていく、もう少し優しい心を持つような人になっていく、ということがに育てられるという意味なんでしょうか。こういうことではないですね。聴聞、聞法 することの意義は、育てられるということにつきます。育てられるということは、如来の問いかけを聞く者となっていくことだと思います。
日々起こる事象、事柄を通して、「あなた自身どういう人間として生きていますか」。あるいは「凡愚とか煩悩具足の凡夫であるあなた自身を忘れていません か、煩悩具足であるあなた自身に帰っていますか」。そういう問いかけをきちんといただくということが、お育てにあずかるとか念仏に育てられるという意味な のではないかと思うわけであります。
決して立派な人間になっていくことが仏法を聞くことの意義ではないのです。