社会×共育×仏教―育つ力、育む力―(3) | 真宗会館コラム | 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館
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親鸞フォーラム

社会×共育×仏教―育つ力、育む力―(3)

社会×共育×仏教―育つ力、育む力―(3)

2017年3 月19日、丸ビルホール&コンファレンススクエア(東京都千代田区)を会場に「親鸞フォーラム―親鸞仏教が開く世界」が開催されました。本抄録は「社会× 共育× 仏教-育つ力、育む力―」をテーマに行われたシンポジウムの内容です。

パネリスト 齋藤 孝 氏 小島 慶子 氏 一楽 真 氏 コーディネータ 本明 義樹 氏

「共に」ということ

人間というのは、そもそも一人では人間になれない

一楽 今回「共に育つ」というテーマを聞いて初めに思ったのは、人間というのは、そもそも一人では人間になれないということです。私たちは、いろいろな関係の中で人間に育てられていきます。何に出会うかによって、どのような人間になるかが決まっていく。いわば縁次第というものを抱えているわけです。例えば戦争地域であれば、学校へ行く前に銃を撃つことを覚えなければならない。親鸞の言葉で言えば「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』第13章)。そうなるべき業縁がもよおしたならば、どのようなことでもしでかしてしまう。それが人間だという人間観です。これは何をやっても仕方がないという自己弁護の言葉ではありません。縁次第で、どうにでもなっていく人間の危うさ、それを知らなければいけないということです。

 今の時代は、人が育っていく場の力が極めて薄れているということを感じます。先ほども地域の教育力、家庭の教育力が衰えてきたという話がありました。私が日ごろ学生たちと接していて思うのは、出会っている世界がすごく狭くなっているのではないかということです。例えば尊敬する人は誰ですかと学生に聞いてみます。一昔前は、歴史的な偉人や、好きな作家さんなどの名前がよく聞こえましたが、昨今は「お父さんです」「お母さんです」という言葉が目立って聞こえるようになってきました。これは悪いとは決して思いません。親を尊敬できるというのは素晴らしいと思います。でも、ちょっと待ってくれよという気にもなるんですね。出会っている人、世界というものが、すごく狭くなっているのではないか。

 もう一方で、正解だけを求めるという風潮があります。全てをマルかバツで決めていく。本当は正解などなくて、問い尋ね続けていくしかないのですが、それをマルかバツかで全て決めようとする。その意味で、断言する人に非常に弱いのです。あるいは多数派になびかざるを得ない。齋藤先生のお言葉を使えば対話力ですね。それを支えるような土壌がない。すぐに答えを出せ、しかも正解の方に立てと。こういう風潮の中で苦しんでいる学生をたくさん見ています。

自分の思いを破ってくれる存在との出会い

 昨年(2016年)、相模原の障害者施設が元職員の青年によって襲われるという事件が起こりました。26歳でどうしてあそこまで考えが固まってしまったのかと思わずにいられません。彼も、やはり役に立つか、立たないかという価値観で全てをはかろうとしていました。障害者は不幸しかもたらさない、障害者を殺すことが世の中のためになるという考えです。もしかしたら彼自身が、自分が役に立つ側の人間だということを、必死で確認しようとしていたのではないか。そんなことすら思うのです。

 人はいったんとらわれてしまうと、そのことを問い返すことが非常に難しい。彼の場合、犯行前に止めてくれた友人もいたようですが、それも振り切ってしまった。そこまで凝り固まってしまっていた。これを仏教では邪見、もしくは無明といいます。見えていないのに、自分の中で分かったつもりになっている。これが大変危うい。その危うさを問い返すのは、自分の思いを破ってくれる存在との出会いなのです。これがなければ執着は決して超えられない。それは例えば親や兄弟や学校の友達です。自分がここにいていいのだと思える関係。そこに居場所というものが出来上がっていきます。逆に周りが悪い意味での競争相手ばかりになると、周りの評価に怯え、常にストレスを抱えることになってしまいます。本当は誰もが「共に」を欲している。居場所を失ったとき、人は孤立化していくのです。

 また、私たちは人間世界だけではなく、自然の中を生きています。震災から6年がたちましたが、あの災害で私たちは自然の中に生きていることをあらためて知らされました。同じことが実は何時起こってもおかしくないのです。養老孟司さんが、人間が全てを人工の支配下に置こうとすることを「脳化社会」とおっしゃっていました。都合のいいもの、快適なものだけを求めて、都合の悪いものを排除し続ける。これが人間の基本的な生き方になっています。

 自然環境どころか、人間は自分の体一つを取ってみても思い通りになりません。生老病死は思いを超えてやってくる自然のいのちの事実です。それを支配下に置こうとするとき、私たちは長く健康に生きることばかりに価値を見いだすようになっていきます。元気で働いているときは価値があって、それができなくなったときには、自分なんかいても仕方がないのではないかという思いにとらわれていく。それが、先ほど言いましたが、相模原の事件を起こした青年のような形で現れてくる。彼と同じようなものを私たちの誰もが抱えているということを、しっかりと見ないといけないのではないかと思います。

 もう一つは、亡くなった人との関係ということが、ものすごく大事だと思っています。お通夜、お葬式というのは、やはり日常にない時間です。その人の人生を偲んで、死という人間の事実を受け止めていく。これは宗派とか儀式の問題ではありません。亡き人を偲ぶということは、亡き人の人生をいただくという意味を持っているのです。残念ながら今の日本は、そちらはどんどん軽くなっている。それは亡き人に対して失礼だという意味ではなく、自分の人生を見る目が半分、あるいはそれ以上、抜け落ちていくという問題を抱えていると思うのです。

 例えば癌という病気で亡くなられたとしても、それは癌に負けたという話ではないのです。寿命を尽くされ、生き切られたわけです。長い人生か、短い人生か。人間はこのことにとらわれがちですが、長さではかれないようないのちの世界がある。私たちがあらためて出遇わなければならない世界だと思います。

私たちの生き方そのものを問うてくる呼び掛けの言葉

 それを、親鸞は「アミタ(amita)」(※)というインド伝来の言葉で大事にしています。amita というのは、「ア(a)」と「ミタ(mita)」という言葉に分解されます。「ミタ」というのは「はかる」という意味です。「ア」は、それを否定する言葉。「はかることができない」というのが、「アミタ」という言葉です。「無量」とも翻訳されます。この「アミタ」に遇わないと、善悪や損得ではかることを人間は止められない。そのように親鸞は言うわけであります。

 ですから念仏というのは、声に出したその音自体に意味があるのではありません。まして阿弥陀さんにお願いして、都合の悪いことを取り除いてもらったり、自分の願いを叶えたりするものでもありません。そうやって自分の都合の善し悪しで生きている、私たちの生き方そのものを問うてくる呼び掛けの言葉なのです。浄土というのも、この「アミタ」の世界を別の言葉で言い直したものです。人間の物差しや執着が入っていない世界を浄土と呼ぶわけです。その浄土を念じながら生きていくこと。浄土が真の宗であるから、浄土真宗というのです。これは本来宗派の名前ではないのです。


 今は英雄待望論、リーダーを求める声が強くなっていますが、世の中が劇的によくなるということはないのだと思います。人間が都合の善し悪しで動いている限り、問題は常に出てくるでしょう。親鸞は、人間の世界が常にそういう問題を抱えているということを、よく分かっていました。その危うさを見つめながら、お互いに人間の物差しを超えた世界を念ずる仲間として生きていきましょう。それが本当に人が育ち合うような場所を生み出していく。そして一人ひとりの生き方が変わることが、この社会を変えていく。ちょっと気が遠くなるかもしれませんが、それしか道はないのだと親鸞は言っているように思います。私たち一人ひとりが、ともどもに育っていくということを取り戻す。そこが、まず大切なことになるのでないかなと、私は受け止めております。

 

※漢訳「阿弥陀」

 

続く>社会×共育×仏教―育つ力、育む力―(4)

一楽 真氏(いちらく・まこと)

大谷大学教授

1957年石川県生まれ。大谷大学文学部真宗学科卒業。同大学大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、大谷大学教授。真宗大谷派宗圓寺住職。文学修士。主な著書に『四十八願概説-法蔵菩薩の願いに聞く-』『親鸞聖人に学ぶ-真宗入門』『日本人のこころの言葉-蓮如』など。

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