法話
親鸞聖人を宗祖にもつということ
法話「親鸞聖人を宗祖にもつということ」
2017年6月16日
講師:木越 渉 氏(真宗大谷派参務/石川県・光專寺住職)
人を通して伝わる
今日は親鸞聖人が説いてくださった念仏の教えがなぜ万民の救済なのか、その根拠を『仏説無量寿経』というお経を中心に少しお話をさせていただきます。
私たちの信仰の中軸はお経です。その種類は、八万四千と言われるほど、非常に膨大な数です。しかも、とてもとても私たちが考え及ぶような内容ではありません。
全てのお経は、「我聞如是」(がもんにょぜ)あるいは「如是我聞」(にょぜがもん)という言葉で始まります。お釈迦さまの教えを一番よくお聞きになられた仏弟子阿難(あなん)が、「お釈迦さまの言葉をかくのごとく聞いた」と初めにおっしゃり、そして続けて「どこで聞いたのか」、その場に「誰がいたのか」と確かめながらお経は始まっていきます。
親鸞聖人は、その中でも『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』を浄土の三部経として非常に大切にされます。親鸞聖人が書かれた『教行信証』の中に『正信偈』という偈があります。その直前に、このような文言を書いておられます。
大聖(だいしょう)の真言(しんごん)に帰(き)し、大祖(だいそ)の解釈(げしゃく)に閲(えっ)して、仏恩(ぶっとん)の深遠(じんのん)なるを信知(しんち)して、正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)を作りて曰わく
『真宗聖典』
つまり、お釈迦さまの教えに帰依(きえ)をいたします。しかし、あまりにも私は愚かで、お釈迦さまの言葉そのものをいただき、その深い意味までは到達することはできない。だからこそ帰依の方法を、浄土の七高僧の信仰を通して学びますとおっしゃっています。浄土の七高僧とはインド、中国、日本にまで万民が救われていく仏法を届けてくださった七人の大事な高僧のことです。その七高僧の仰せを通して初めてお釈迦さまのご恩の深さを知ることができると親鸞聖人は宣言なされるのです。
重要なのは、信仰、仏法というのは、人を通して伝わるものであり、知識で捉えるものではないということです。お経の文面ではなく「間違いない。これが一番大切だ」と頷いた人間のところに仏法があるということです。そのことを親鸞聖人が伝えてくださっていると思います。
万民救済の法
真実の教を顕わさば、すなわち『大無量寿経』これなり。 『真宗聖典』
『仏説無量寿経』を『大無量寿経』あるいは『大経』というふうに親鸞聖人は呼びます。「大」というのは大いなるという意味です。この『大経』こそが、私を救うためにお釈迦さまが説いてくださった仏法であるというふうに親鸞聖人はいただかれました。これは親鸞聖人の非常に明確な立ち位置です。人としての宗教的実感とも呼べるものだと思います。万民救済ということの根拠は大経であり、それは、こんな私にまで届いた救済の法であるということです。

『大経』が説かれる「きっかけ」についてお話しします。ある時阿難が、いつものように思索にふけっていたところに、お釈迦さまがやって来られました。すると阿難はお釈迦さまの顔を見て、びっくりし、跳び上がるのです。続けて阿難は「お釈迦さまの顔が光っております」と言います。いつも光り輝いているはずなのですが、特にその時はそう見えたのでしょう。阿難は続けてこう聞きます。
「この仏の仕事を、わが仕事にしたい』と絶えず憶念することが、仏の仕事なのですね、そうではないのですか。今まさに、お釈迦さまは、他の仏のことを憶念されておるのでしょう、だから光って見えるのですね。」想像するに、お釈迦さまが光って見えたのは、過去、未来、現在のいろんな仏さまの教えを聞くという、仏さまのお仕事を今まさになされ、「ああ、なるほど大切だ。この仕事を私の仕事としたい」ということを本当に実感されたのでしょう。
そうするとお釈迦さまは、「阿難よ、その問いは、おまえの中から出てきた問いか。誰か兄弟子に、こういう問いをお釈迦さまに聞いてみろと言われて問うたのか」と聞くのです。阿難はこう答えます。「いえ、これは私の中から出た問いです」と。その答えにお釈迦さまは、阿難を褒めるのです。「いいぞ、阿難。よく気が付いたな。いよいよ万民救済の法である念仏の教えを説く時が来た」と言って説きだしたのが『大経』です。
これがお釈迦さまの対機説法です。相手が受け止め、反応できる状態になった時に初めて言葉を発する伝え方です。ミットを構えたところに、きちんとボールを投げることが対機説法です。そしてお釈迦さまは自らの気配を消して、阿弥陀仏の説かれる万民の救済を語りだすのです。
本当の願い
お釈迦様は最初に法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という菩薩のお名前を出します。これは阿弥陀仏の修行時代の名前です。その法蔵菩薩はまず「私は一切の恐れ、おののきのために大きな安心を与えたい」と願います。その大いなる安心を与えるために、法蔵菩薩は四十八通りの願いを建ててくださいました。どのような浄土という国を建てるのか、どのようにしたらその国に往けるのか、その浄土に生まれた者はどのような仕事を賜るのか、という三つのことが四十八の願いの中に誓われるのです。
象徴的に浄土を表現しているのが、四十八願の中の第一番目の願いです。まず、「この浄土という国を、地獄、餓鬼、畜生がないものにしたい」という願いを立てるのです。
地獄のというのは絶対的な孤独ですね。助けてくれと言っても助ける者がいない世界です。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は血の池地獄に亡者たちが浮き沈みする様子を描いていますね。自分が浮く時には必ず横の人を引っ張り下ろす。そして自分が表に出るわけですね。しかし、表に出た途端、下からまた亡者が自分を引きずり下ろして、その亡者がまた上がる。だから助けてくれと言っても誰も助けてくれない絶対的孤独が地獄です。それは他の世界ではなく、実は私たちの世界が地獄そのものだということを表現してくださっております。
もう一つは餓鬼道です。餓鬼道というのは、満足心のない世界です。欲しいものがあれば人をも殺しかねないような世界が餓鬼道であります。
そして畜生道ですが、畜生というのは、傍生(ぼうしょう)とも言います。自分が道の真ん中を歩き、他を蹴散らしていくような世界が畜生道だと思います。つまり傍(かわたら)を生み出す世界です。仏法を我が身の寄辺の話と聞くと、だんだん眠くなるでしょう。けれども、人の悪口になると途端に目が輝くということがよくありますね。それが、私たち煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫の反応、畜生の反応ですね。私たちは真実なるものに反応できない。しかし、ひとたび人を傷つけるものなどには敏感に反応していく。法蔵菩薩はそういう世界ではない、あらゆる違いを超えて、お互いを尊く認め合える世界として浄土というものを願われたのであります。
一番奥底にある本当の願い、根源的な要求は何か。

それは、互いに本当に安心して日暮らしをしたいということではないのか。そして互いに尊敬し、互いに大切な存在として認め合う世界が浄土であり、その浄土を願えと、法蔵菩薩、つまり阿弥陀仏がおっしゃいます。
その教えに遇い、自分の本当の一番深い願いに背いていたという自分にも出遇われ、「ああ愚か」と気付いたのが親鸞聖人であります。「ああ愚か」。それが南無阿弥陀仏の一番底にある意味です。
仏に帰依するということは、自分の愚かさに気付かされ、頭を下げていく。そして自分の人生を本当に大事なものとして、さらには他の人生を同じく大切なものとして頂戴し、丁寧に、襟を正して人生歩んでいくのが念仏者ではないかというふうに私は受け止めております。
【終】