AI×ゴリラ×仏教―人間とは何か(1) | 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2019年05月14日

Category 親鸞フォーラム

AI×ゴリラ×仏教―人間とは何か(1)

パネリスト山極 壽一 氏、井上 智洋 氏、木越 康 氏、 コーディネーター藤原 正寿 氏

2018 年4 月21 日(土)、丸ビルホール&コンファレンススクエア(東京都千代田区)を会場に「親鸞フォーラム―親鸞仏教が開く世界」が開催されました。
本抄録は「AI× ゴリラ× 仏教-人間とは何か―」をテーマに行われたシンポジウムの内容です。

藤原  「AI× ゴリラ× 仏教」という今回のテーマは一見バラバラで、どこに接点があるのかピンとこない方も多いかも知れません。まずAI(人工知能)は、今や私たちの社会において身近なものとなっていますが、このまま社会のAI化が進んでいき、人間の担ってきた仕事がほとんどAIに取って代わられる時代がやって来たとき、はたして人間は、どこで自分が人間であるというアイデンティティを確認できるのか。そのことが改めて問われる時が来るのではないかと思います。また山極先生の研究によりますと、人間とゴリラの遺伝子の違いは実は1.2%ほどしかなく、このゴリラの社会や生態を見つめる事で、人間がどのような経緯で、今のような形にまで進化してきたのか、その背景というものが見えてきます。そして仏教というのは、誰もが生まれ、老い、病んで死んでいく、生老病死という人間の事実を見つめる教えであります。
 一見、まったく接点のないようなAI、ゴリラ、仏教ということですが、それぞれが「人間とは何か」、私たちはどこから来て、どこに行き、どこに帰っていくのか。このようなことが、共通の問題としてあるわけです。

「分かち合いの精神」と「弱みを強みに変える」という発想

山極 今、人間は文明の大転換の時期に差し掛かっていると私は考えています。さまざまな情報通信機器、そしてAIの出現によって、人間の手によらない、利便性の高い効率的な社会が構築されようとしていること。また、人間自身も医療技術の進歩によって、これまでの人間観が一新しようとしている。私たちは一体どこへ行くのか。どういう未来を描いたらいいのかということに関して、あまりにも不確かな時代であることも事実です。ですから、やはり今一度、人間が来た道を確かめてみなければならないのではないかと誰もが思い始めている。我々は何者なのか。どのような変化の仕方をしてきたのか。そして、これから、どのように変化できるのかということを確かめたいわけです。タイムマシンに乗って未来を見ることはできません。ならば、せめて過去に帰って、過去の我々の姿を見るということが必要なのではないかと思います。しかし、人間の社会や心は化石には残りません。ですから、人間と非常に近い、しかし別の進化の道をたどってきたゴリラやチンパンジーの現在の姿や社会、認知能力から過去の人間を確かめてみたい。これが一番簡単な方法なわけです。そのために私はもう40年近くゴリラの研究をしてきました。ゴリラの群れの中に入って、彼らの側から世界を、人間を眺めてみると、人間の面白い側面が見えてくるのです。

 私が今日皆さんに申し上げたいことは、ゴリラから見るとき、人間の一番素晴らしい点は何かといいますと、「分かち合いの精神」、それから「弱みを強みに変える」という発想です。これは、ゴリラにはできなかったことなのです。

 最初に、分かち合いという話をします。これは、人間の立って歩くという歩行様式に大いに関係があります。ゴリラ、あるいはゴリラを中心とする人間以外の霊長類では、食物を分け合うということはほとんど起こりません。彼らの食べ物は基本的に植物ですから、あえて分ける必要がないのです。彼らが住んでいる場所は熱帯降雨林という、一年中豊かな果物や緑の葉っぱがある場所です。そこでは、個人個人がめいめい好きなものを取って食べれば、それで済んでいたし、一年中食物が途絶えることがほとんどなかった。

 しかし、人間は700万年ぐらい前から、徐々にその豊かで安全な熱帯雨林を出始めました。サバンナ、草原へ出ていったわけです。そこでは、やはり乾期が長くなりますから、一年中食物が得られるというわけではない。食物をどこかで大量に獲得し、それを安全な場所に運ばなくてはならない。熱帯雨林には高い木があります。地上性の大型の肉食動物は木に登れませんから、そこは安全な場所でした。だから、いまだに人間に近いチンパンジーやゴリラやオランウータンは木の上に登って寝ます。ところが熱帯雨林を離れれば、そういう場所はありません。食物を得られたとしても、ライオンやハイエナなどの肉食動物に狙われてしまいます。だからその食物を手で運び、安全な場所で待っている仲間と一緒に分かち合う必要があったわけです。ここにはすごく大事なことが隠されているわけです。

食物を信じているんじゃなくて、食物を持ってきた人間を信じている

 今では食物をスーパーマーケットなどで買って調理し、家族や仲間と一緒に食べることが当たり前になっていますが、野生動物は絶対にそんなことをしません。食物は自分の五感で確かめて、安全性を確認した上で食べるものだからです。ところが、食物を仲間の元に運んでいくということは、その食物がどこから採られ、どういう性質のものであるかを、待っている人は見ていないわけです。自分の五感によって確かめていない。だから、それを食べられるということは、その食物を信じているんじゃなくて、食物を持ってきた人間を信じているということなんですね。その時から信頼関係によって、一緒に食物を食べるということが始まったわけです。

 これは、動物から見たらとんでもない話です。ひょっとしたら、自分に毒があるものを食べさせるかもしれないですから。だから、私が経験したアフリカのいくつかの村では、食物というのは必ず家族が調理したものしか食べないという文化がありました。一昔前に、和歌山県でカレーにヒ素が混入された事件がありましたが、今だって仲間を毒殺しようとすれば簡単です。では我々が食材を買ってきて調理するのはなぜかというと、スーパーマーケットは絶対にそういうことをしないと信じているからですね。人を信じ、組織を信じ、流通を信じている。そういうシステムが人間社会に出来上がったからです。その源にあるのが、二足で立って食物を手で持って運び、仲間の元に持ち帰り、安全な場所で共食をするということなのです。これができたからこそ、人間は危険な草原で生き長らえることができた。ここで分かち合いということが人間社会で一般的になったわけです。

 そして、ただ食物を得ていた時とは違い、今度は分配するということが必要になります。例えば食物を3つ持って帰ってきて、それを10人で分ける場合に、不満の無いように分ける方法が必要です。待っている人たちも、自分の取り分が何かということを、そこで考えなくてはならない。そのように食物が人と人とをつなぐ重要な接着剤となったわけです。食物を持ってくる人は、その人間関係をコントロールすることさえできる。だから、食物は人間の社会的な道具になった。これはとても大きな変革だったと思います。

 人間は二足で立って、手で食物を運ぶという歩行様式をつくったことによって、敏捷性が落ちました。つまり弱くなってしまったのです。肉食動物が狙うのは、大人ではなくて子どもです。子どもがたくさん肉食動物に殺され、幼児死亡率が上がります。哺乳動物で、肉食動物の餌食になる動物に、日本ではイノシシやシカがいますね。彼らは、一様にある特徴を持っています。それは、たくさん子どもをつくれるということです。たくさん子どもが殺されるのであれば、それ以上に子どもを産まなければ、その種を増やすことはできません。人間の祖先も同じように多産型の道を選びます。ただし、一度にたくさんの子どもを産むことは類人猿の性質上不可能なので、出産間隔を縮めて何度も子どもを産むような形になるのです。そのためには早くに離乳させなければいけない。母乳をあげているうちはプロラクチンというホルモンが出て、排卵が抑制されます。つまり妊娠ができないのです。おっぱいから引き離せば、排卵が回復して、早く次の子どもを産む準備ができる。その為、赤ちゃんの離乳が早くなったのです。そのために、本来ならば授乳しているはずの赤ちゃんへ、代わりに違うものを食べさせるということになった。ゴリラなど人間に近い類人猿は、離乳する前に永久歯が生えています。離乳した時から、大人と同じ物が食べられるのです。でも、人間の赤ちゃんは1〜2歳で離乳しますから、ずっと乳歯です。6歳にならないと永久歯が生えてこない。本来ならば、人間の赤ちゃんは6 歳まではお乳を吸っていていいわけです。ところが、そのずっと前に、赤ちゃんはお母さんから離されます。そのために、赤ちゃんに特別なもの、柔らかい、糖分の高い果物などを運んでもらわなければいけなかった。それにはコストが必要だったし、危険が伴ったはずです。そうまでして人間は赤ちゃんを離乳させ、その成長の遅い赤ちゃんを、みんなで育てるということを始めたのです。

 しかも、200万年前には人間の脳が大きくなり始めました。当初はまだ、600ccという、ゴリラの500ccをちょっと超えた段階でしたが、それから150万年間に人間の脳は3倍になりました。われわれの脳はゴリラの脳の3倍ぐらいある。その脳を大きくするために、成長期にまずは脳に過大なエネルギーを送り続けて、その分、身体の成長を遅らせるということを始めたわけです。なので、人間の赤ちゃんはまず脳が一気に成長する。その脳の成長を助けるために、分厚い脂肪に包まれて大きな重たい赤ちゃんを産むようになったわけです。しかも、直立二足歩行によって骨盤の形が大きく変わってしまったため産道を大きくできない。だから、出産に時間がかかる。難産になる。母体が危険にさらされる。それをみんなで助けて出産をさせ、そして、ひ弱でエネルギーがたくさんいる赤ちゃんを、みんなの手で育てる。それが可能になったから、人間はたくさん子どもを増やすことができ、死亡率が高い過酷な環境で生き延びることができるようになった。これが人間の社会力なんです。

個人というものは決して溶け合えるものではない。だからこそ人間は分かち合ってきた

 

 私たちの身体や心は、食物や子育てを分かち合う信頼ということを根本に据えて、社会をつくるという能力によって築かれている。それは、1万2千年前に農耕牧畜が始まり、定住が始まり、都市が出来上がるよりずっと前につくり上げられた私たちの能力なのです。それが今、急激に人口増加が起こり、環境が人工的に変わり、私たちは情報通信機器を使って、様々な人々とつながり、まさに身体ではなく脳でつながり始めています。その脳でつながり始めた延長線上にAIが出現してきているわけです。

 心と体というものは一つです。そして、個人というものは決して溶け合えるものではない。だからこそ人間は分かち合ってきたわけです。ゴリラは仲間と一緒に行動します。身体で同調する能力は、おそらく人間よりゴリラの方が高いでしょう。しかし、様々な状況、目的に応じて、個体同士がつながることはゴリラには出来ません。今ここで400人以上の方々が一堂に会して、シーンと静まりかえって私の話を聞いている。こんなことは、ゴリラにも、チンパンジーにもできません。人間は一つの状況を簡単に分かち合うことができる。ある目標をみんなが持って、その目標に向かって進むということが人間にとっては、いとも簡単にできるのです。

ゴリラはいったん群れを離れてしまえば絶対に自分の群れに戻ることはできません。

 それは身体を、心をつなぎ合わせる能力です。ゴリラはいったん群れを離れてしまえば絶対に自分の群れに戻ることはできません。数日間、いなくなってしまったら、もうその群れの仲間ではいられないんです。姿が消える、つまり身体の接触が途切れるということは死んだと同じだからです。でも、人間は1年や2年どこかに行って、また戻ってきたら同じように付き合えるじゃないですか。それは身体のつながりというものが、心の中でずっと残存し続けているからです。そういうことができるのは人間だけです。それを人間は、進化の間で可能にしてきたのです。

 今、私たちは非常に巨大な人口を抱えた都市に生きています。そして、近くにいる人の方が遠くで通信機器としてつながっている人よりも疎遠であるというような、複雑な関係を持ちながら生きています。どうやってそれをコントロールしていいのか、困っているのです。誰を信じていいのか。近くにいる人を信じていいのか、それとも、SNSでつながっている人を信じていいのか。いま人間は身体と脳が分離して、脳だけでつながり始めている。そこに登場したのがAIです。AIは脳をつなぎ合わせることができ、人間をもっとこれまで以上に一体化させるでしょう。その時に、私たちはどう身構えなくてはいけないのか。人間というものが、どういう存在であり続けなければいけないのか。あるいは、どう変われるものなのかということを、しっかり見定めた上で未来を見つめなければならないだろうと思っています。

 

続く>AI×ゴリラ×仏教―人間とは何か(2)

山極 壽一氏(やまぎわ・じゅいち)

霊長類学者・人類学者

1952 年東京都生まれ。第26 代京都大学総長。霊長類学者・人類学者。京都大学理学部卒、同大学院理学研究科博士後期課程単位取得退学。理学博士。ルワンダ共和国カリソケ研究センター客員研究員、日本モンキーセンター研究員、京都大学霊長類研究所助手、京都大学大学院理学研究科助教授、同教授、同研究科長・理学部長を経て、2014 年より現職。日本霊長類学会会長、国際霊長類学会会長を歴任。現在、日本学術会議会長、国立大学協会会長、環境省中央環境審議会委員を務める。

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