敗戦79年目の夏に|漫画家 ちばてつやさん 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2024年11月07日

Category インタビュー

敗戦79年目の夏に

漫画家 ちばてつやさん

終戦のときは6歳だった。日本の敗戦に気づいた中国や朝鮮の人たちが騒ぎはじめ、あちこちの日本人の家が襲われた。 父が兵役から帰ると、家族6人の逃避行が始まった。

 

私の父は終戦間際に赤紙(旧軍隊の召集令状)が来て兵役に就いて、敗戦でシベリアに連れて行かれかけたんですが、体が弱くて隊列から外され、1週間ほどして帰ってきたんです。それで印刷工場の仲間たちと相談して、社宅を出て、もっと安全な所へ行こうということで、真夜中に逃げ出したんです。9月になると中国の東北部は水たまりに薄氷が張る。ありったけのものを着て、毛布をたくさん巻いてね。一番下の弟は生まれたばかり。その上が2歳、よちよち歩ける程度。そして5歳の弟と私です。私は絵を描くのが好きだったので、エンピツやクレヨン、工場の裁断でいらなくなったヤレ紙(破れ紙)を大事にリュックに詰め込みました。

私たちの家族がみんなとはぐれて迷っていたとき、たまたま工場で同僚の中国人の徐さんに会って、徐さんの家の屋根裏にかくまって助けてもらいました。父は中国人の格好をして、徐さんと一緒に市場に買い出しをして、あちこちに隠れている日本人のところへ野菜や魚を持って行くと飛ぶように売れました。売れ残ったものを屋根裏へもってきてもらって、そこでみんなで食べてという生活を何週間もしました。

やがて仲間たちと再会し、奉天市郊外の集合住宅で酷寒の冬を過ごした。翌年、渤海湾のコロ島の港から日本に向かう引き揚げ船が出ていることを知り、再び出発した。

 

 

やっと引き揚げ船に乗ることができた人たちは不衛生でみんな栄養失調だから誰もが下痢をしているんですね。弟たちはみんなあばらが出ていて、おなかだけぼこんと膨らんで、手と足が割り箸みたいなんです。骨に皮がついているだけ。幸いなことに小さな子どもやお年寄りや病気の人は優先的に早めに乗せてくれたんだと思います。でも、これで日本に帰れると安心したのか、船の中で事切れる人が何人も出ました。印刷会社の社宅から一緒に逃げて来たキョウちゃんも船の中で死にました。遺骸はすぐ毛布やむしろにくるまれ、船尾に運ばれます。伝染病などをおそれて、海に葬るのです。何度も船を停めてご遺体を海におろしたあと、船はその浮いているご遺体の廻りを三周し、長い汽笛を鳴らして別れを告げます。

私たちは1年で帰ってきましたけれども、日本に帰りたくて一生懸命頑張ったのに帰れなくて、たくさんの人が亡くなりました。残留婦人とか残留孤児の人たちもいます。そういう人たちを含めるとどれだけの人が日本に帰れなかったんでしょうか。

その人たちに対して、「ごめんね」という気持ちがあるんですね。あのときちょっと手を引っ張ってやれば一緒に船に乗れたかもしれない。本当に申し訳ない。日本に帰れなかった人たちには、墓も何もないんです。土が凍って穴が掘れず、埋められない遺体もあった。そういう人たちに手を合わせたい人もたくさんいる。だからこその「母子地蔵」なんです。

 

 

<Profile>

ちばてつや

1939年、東京生まれ。 生後間もなく朝鮮に渡り、その後奉天(現瀋陽市)に移る。父親は鉄西区の新大陸印刷に勤務していた。敗戦後の生活を『屋根うらの絵本かき』として漫画化している。46年6月博多に引き揚げる。高校2年のとき貸本屋の単行本でデビュー。少年漫画界の第一人者として活躍。代表作『あしたのジョー』『ちかいの魔球』『のたり松太郎』『ハリスの旋風』『ひねもすのたり日記』など

写真・児玉成一

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