2019年04月19日
Category サンガコラム
小窓のあかり
私の父は物書きで、「赤ん坊の泣き声は文学を殺す」と言い放ち、幼い私を抱っこすらしない人だった。文学を大義名分にして、わがまま放題の父。そんな父の金銭問題、女性問題に、母はいつも泣かされていた。私は、母の泣き言を聞くたび「そんなに嫌なら別れれば?」と一蹴した。実際、いつまでもうじうじ泣いている母が疎ましかった。情けなくて嫌いだった。それは今でも変わらない。
先日、実家に帰省すると、母が40年前の父の裏切りを昨日のことのように話し出した。またかと私と兄が母の恨み節に付き合っていると、とうとう父が怒り出した。「まだ言うのか」「だって、あなた一度だって謝ってないじゃない」。
70歳の夫婦喧嘩を眺めていた私は「お母さんて、可哀想な人だよね」と兄に呟い
た。「可哀想?」。兄は母を可哀想と思ったことは一度もないと言う。なぜなら、母は一度だって父に屈服したことはないからだと。母がおもむろに新聞紙を丸める。新聞紙のバットで父の薄くなった頭頂部を狙う。逃げる父。追う母。泣きながらも反撃に出る母の顔は上気して、どこか活き活きして見える。
一方、父は年々疲弊して、死ぬまで母に責め続けられるだろう。そして、私も兄も、母の愚痴に一生付き合わされるだろう。さて、誰が可哀想なのかわからなくなってしまった。
堀江 彩木(渋谷区・諦聴寺)