2019年02月06日

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法名と終活-仏の教えに生きる-

「いのち」を今、どういきて往くのか?

私たちは、老・病・死をかかえたいのちを生きています。老いを思い、病いを思い死への準備としての終活もあるでしょう。
しかし、私たちは老いや病いをかかえ終えていかなければならないこの身を生きているのです。
今の私を生きて往くため仏の教えを依り処とする人生を習う。それが “仏教の終活”です。

世間でいわれる「終活」と仏教が考える「終活」

 「終活」は新しい言葉ではありません。一般的な「終活」は、自分がいのちを終えていくことに向けた準備としてイメージされています。もちろんそのようなことに留まらず、やがて終えていくいのちに向き合い、目の前の問題を解決し、安心して生活をしていくということも、「終活」という意味に含まれているのではないかと思います。

 では、仏教が考える「終活」とはどういうものかということになります。それは、やがて終えていくいのちではありますが、そのいのちを、仏の教えをよりどころにして「今、生きて往(ゆ)く」ということです。たくさんの問題を抱えていて、生きづらい世の中であって、不安もあり、悲しい思いもする。そんないのちを私たちは、今、生きているのです。その私たちにとって本当に必要なことは何か。そのことを問いかけているのが、「仏教の終活」だと思っています。

法名をいただく意味とは

 「法名」というと、どういう印象をお持ちでしょうか。「戒名」という言い方のほうが聞き慣れているかもしれません。おそらく、亡くなった時につけていただく名前という印象をお持ちではないでしょうか。浄土真宗では、「法名」と言い、いかなる場合にも「戒名」という言い方は致しません。

 法名は「釋○○」です。「釋」はお釈迦様の「釋」の字です。つまりお釈迦さまの弟子という意味があります。仏弟子として、亡くなった方をお送りするのですが、その亡き方は仏弟子として、生きている私たちに仏の教えを勧めてくださっているのです。

 しかし本来は、「法名」は生きている時にいただくことができる名前です。生きている中で、仏の教えを人生の中心に据えていくという名告(の)りなのです。私が、私の人生を仏の教えをよりどころにして生きて往くのだという、いわば人生の態度決定となる名告りなのです。そのことが、「法名」をいただくという意味として大切にしていることです。

 三帰依文という教えの言葉があります。「仏・法・僧」という三つの「宝」を中心にして生きていきますという、仏教徒の態度決定での言葉です。「仏」は仏さまです。「法」というのは教えのことです。「僧」は僧侶ではなく、同じ教えを聞く朋、仲間ということであって、それを「僧伽(サンガ)」と言います。そのサンガに属し、自分の人生を「仏」と「教え」に尋ねて生きて往く。これが法名をいただいた者の、具体的な生活態度になります。

生きるうえでの「よりどころ」とは

 最近はブログやSNSなどで、いろいろな方がご自身の思うことをインターネット上に表現しています。中心に生きるということから、「よりどころ」という言葉を検索しますと、このような言葉が出てきます。

「私は今まで、いったい何をよりどころにして生きてきたのか?」

「本当のよりどころって何?」

「確かなよりどころなんてあるのだろうか?」

 これらの言葉に共通しているのは、すべて「問いかけ」です。誰かに向かって問いかけているのです。これは私の想像ですが、今まで自分が確かだと思ってきたものや間違いないと思ってきたものに裏切られたり、またはそれが崩れてしまったり、失ってしまったという経験があったのではないかなと思います。つまり、行き詰まった時に、自分が確かだと思っていたものが、そうではなかったのかもしれないということに気づいたのでしょう。そこで初めて、「では本当によるべきものは一体何なのか」とういう“問い”が起こってくるのだろうと思います。

 できることならば、壁にぶち当たったり、絶望したりしないほうがいいでしょう。傷つきますから、できることならそうなる前に本当の「よりどころ」に出会いたい。実はそれこそが本尊である阿弥陀如来という仏さまのはたらきなのです。つまり仏さまは本当に尊いということをもって、私たちに今、自分が「よりどころ」にしているものが本当に確かなものなのだろうかということを問いかけているのです。

 その問いが大切なのです。問いをいただくことが、自分の人生を尋ねていくことになります。その歩みが、仏の教えに人生を尋ねていくという歩みです。この歩みこそが、終活と言うべきではないでしょうか。

 阿弥陀如来という仏さまは、光輝いている姿として描かれ、掛け軸や木像に表されます。私たちには、光そのものは見えません。光は、照らされたものの上に、その姿、はたらきを表します。例えば太陽がありますが、宇宙は真っ暗です。太陽の前を月が横切ると、月の面が照らされます。僕たちには、照らされていることで、月があるということが分かります。でも、太陽から月までの光は見えません。つまり、阿弥陀如来の光のはたらきによって、この私の“そのままの姿”が浮かび上がってくるのです。私たちがどのようないのちを生きていて、何に迷い、何に苦しんでいるのか。どんなことをよりどころにして、何にしがみついているのか。そういうことが照らされ、浮かび上がるということです。そのはたらきを仏教では智慧(教え)と言います。

 親鸞聖人は阿弥陀如来の智慧(教え)は、その光のはたらきによってこの私の姿を照らし出すのだとおっしゃっています。その真実の教えによって「真実ではない私」に気づかされます。そのことを気づかされるはたらきこそが、真実の教えであります。そうであるならば、この私の身の事実を知らしてくださる真実のはたらきに、その教えを中心に人生の迷い、自分の人生の問いかけを尋ねていこうとする。これが私たち真宗門徒、もっと広く言えばと仏教徒の生き方であります。それが私たちの「終活」です。いろんな方法で目の前の問題を解決していくことはできます。しかし、問題を解決や整理しても、どうしても最後に安心できないものが残ります。それはやがて死んでいくということです。そしてその私の本当の姿を照らして、何が本当の安心をあたえてくれるのか。そのことを仏教は2500年の歴史をかけて、今私たちに伝えてくださっているわけです。

仏教の「終活」

 仏の教えを生きて往くということは、具体的には法名をいただいて、三つの「宝」に帰依をして、そして自分の人生を尋ねていく。こういうことが大切に伝統されてきました。

 仏教の「終活」というのは、新しいことではありません。私たちが、お寺に集う方々と一緒に確かめ合ってきたことです。葬儀や法事も、仏の教えを聞き、いのちの歩みを確かめあってきた場でもあったのでしょう。

 仏の教えをよりどころとして、今、このいのちを生きて往く。これが仏教の「終活」として大切にしたいことです。

小林尚樹 (こばやし・なおき)

真宗大谷派東京宗務出張所出仕。東京都江東区・光明寺住職。

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