法話
聖(ひじり)空間の喪失
法話「聖(ひじり)空間の喪失」
2018年7月19日
講師:真城 義麿 氏(大谷学園専務理事/愛媛県・真宗大谷派善照寺住職)
本日は『聖空間の喪失』という題でお話をさせていただきます。出版社ウェッジから『日本人の忘れもの』という本が3冊出ています。その1冊目の中の「住まい」というところで、著者である中西進先生が「聖空間の喪失」ということを嘆いておられます。
中西先生は、家の中の聖空間として三つ挙げておられます。一つは「床の間」です。畳よりも一段高いスペースを「床の間」という大切な場として家の中に持っていましたが、今はなくなってきているということです。それから二つ目は、へっつい、かまども含めて「囲炉裏」です。火を大事にしてきた日本人の生活の、象徴的な形がなくなったということですね。そして三つ目が、「仏間」であります。この、ご本尊の前の空間という「聖空間」ですね。私たちが仏間を失ってしまったということです。地域でいえば、お寺の本堂のことです。ここでは、それ以外の空間とは価値観や大切なことの順番が違うのです。聖空間で過ごす時間は、聖時間ということになると思います。
「量」の世界と「無量」の世界
聖空間、聖時間に対するものは何かというと、「世俗空間」ですね。それは、損得勘定が中心になった経済空間ということになると思います。数量として、物事をできるだけ数値化して考えていく。多寡、上下、優劣、主従、高低、勝敗、損得に関心が行き、自分の都合が優先になります。自分に分かる説明だけが認められ、「できたら認められる」世界です。当然、世俗空間では、「人間」というのは生きている人だけが対象です。
しかし聖空間に身を置き、聖時間を過ごす中で、人間を超えた仏さまのような方、あるいは死者と対話し、メッセージを受け止めることができるという経験がありませんでしょうか。そして、それに触発されて、様々なことに思いが至るというようなことが出てくるわけであります。
聖空間、聖時間が失われるということは、生活が全て世俗空間だけになってしまう。聖空間に折々に触れるということがなければ、世俗空間の「ひずみ」や「行き過ぎ」に気が付かなくなってしまうのではないでしょうか。
阿弥陀如来の「阿弥陀(アミタ)」とは元はインドの言葉で、「無量」と訳されます。「ミ」は英語のmeasureと同じで、計測する、数えるという意味です。「タ」は、それができたということで、「ミタ」というのは数えることができたという意味です。それに「ア」が付くと、英語のunと一緒で、それが否定されるということです。
量で考える意味がない、量をいくら積み上げても届かない。量で評価するということが意味を持たない。「無量寿」という言葉もありますが、「寿」は「いのち」で、量的に比べたり評価したりすることに意味を持たないのが「いのち」です。けれども、私たちは、世俗空間の中であらゆることを量で考えることが身に付いてしまっていますね。
親鸞聖人は本願念仏の教えのエッセンスを『正信偈』というウタで表現されました。その冒頭は「帰命無量寿如来 南無不可思議光」で始まります。「無量」「不可思議」です。説明や知識や理屈の世界ではありませんよ、ということなのです。量の世界は、増えたか減ったか、どっちが多いかという比較の中で、ある方向性が必ず求められ、そこで競争させられる。それはそれで世俗の中で大事なことですが、一方で、私たちは比較がまったく成り立たない世界でも生きているということを持っていないと行き詰まってしまうのではないでしょうか。

世俗空間の中では、自分の請求を都合良く充足させることが最大関心であります。しかし実際には、私の好都合が成り立つためには、誰かの不都合によらなければならない。そして、いくら請求が好都合に実現したとしても、老い・病い・死をはじめとする思い通りにならない世界といいますか、解決しない問題がどこまでいっても残ります。
金子大栄という先生が、人生の問題は「人生における問題」と「人生そのものの問題」の二通りあるとおっしゃっています。「人生における問題」は、世俗空間の中で、さまざまに不都合を改善改良し、解決して不都合を取り除く方向です。そのために、財力・権力・体力・知力・家庭等のレベルアップをし続ける。
一方で「人生そのものの問題」は、どんな境遇にあっても、不都合の中でも、うそをついたり、ごまかしたり、なかったことにしたりせずに、顔を背けずに引き受けていくことのできる生き方を求めることです。そういう生き方があるのではないかと求めることを、仏教の言葉で「大事」と言います。大きな安心感を持つ。どんなに惨めな状態として他人から見られるような場面になっても、支えられているのだと安心できる。どんな状況になっても私が生きていることには意味があり価値があるのだということです。存在が無条件に尊いと認められる世界です。
世俗空間では、どうしても差別の世界になります。「人間」がいつの間にか「人材」という言葉になりました。材料としての人間です。必ずそこに評価が入って、いい人材、悪い人材。使う、見る人にとって都合のいい人材ということで、序列をつけていく。しかし聖空間では、そういうことをはるかに超えて、「人間」として尊いもの同士であるというところに立つ。
無量という世界は、比較ができない世界です。強さや賢さ、高さや速さは比べることができますが、尊さというのは比べるということができません。どの存在も、それぞれに存在として尊い。そういう前提で、阿弥陀の本願というのは成り立っているわけであります。どの存在も価値があり、意味があり、尊いのであると。だからこそ、私たちは、聖空間に身を置いて、そのことを確かめ直すということがあるのだと思います。
「私は」から「私のために」
聖空間、特に仏間やお寺の本堂というのは、私たちがご本尊と向き合って座るわけです。この阿弥陀という仏さまから光が出ているという姿であります。そして仏さまの光を受ける側に私たちが座ります。
世俗空間にいる私たちは「私は」「私が」ということで生きています。例えば自己紹介は「私は」から必ず始まって、私は他人と比べてここが違うということを表現しようとします。しかし、仏間に座った者は皆、「仏さまが私のために」「私のことを」というところに身を置くということです。するとそれに触発されて、「私のために」ということを考えてみれば、生まれてから今日まで、私のためになされたことは、親によって、友だちによって、先生によって、近所の方等、数え切れないほどあります。あるいは「私のことを」ということで言えば、過去も今も、そしてこれからも、誰かが私のことを大事に応援してくださり、願いを掛けてくださり、心配してくださりということがあるのではないでしょうか。
世俗空間の物差しでは、合理的で、効果的で、効率的でというところだけでいくため、床の間や仏間のような、直接的には出世にも儲けにもつながらないようなことは、どこかへ押しやられていくということですね。

「私は」という前提では、「自分は損していないだろうか」「これができなくなった」という、どうしてもマイナスの方面に関心が行きがちでありますが、「私のために」「私のことを」という聖空間に身を置くと、いかに恵まれてきたかに思いが至ります。「ああ恵まれてきたな」「様々にしていただいてきたな」ということが次々と思い浮かんでくる。先輩方は、そういうことをひっくるめて、「おかげさま」と言ってきたわけであります。
聖空間とか聖時間というのは、用意された場もありますが、私たち真宗門徒の先輩たちは「南無阿弥陀仏」と念仏を称えるとき、その場が聖空間になり、その瞬間が聖時間になるのだということをずっと大切してきました。そしてそこで、この世俗空間のねじれや、ひずみや、ゆがみや、行き過ぎや、足りないことなどに思いがいく。一種、世俗空間を確認する鏡になることであります。関心の向きが少し変わっていくということであります。
『真宗宗歌』の2番の歌詞の後半は「六字のみ名をとなえつつ 世のなりわいにいそしまん」であります。念仏を称えつつ(・・)、世俗空間の中で一生懸命誠実に人生を尽くすということであります。「南無阿弥陀仏と称えつつ」というのは、うまくいっても何か手応えがないような世俗空間の中にあって、私たちの人間の思考や知恵を超えて、「仏さまからはどう見えているか」「仏さまならどのようにお考えになるだろうか」というようなところに、ふっと関心がいくのでしょう。そして、私は本当のことが分かっていないという気づきが与えられるのです。
つまり、私が生きていくにあたって、私が本当に大事にしなければならないこと「本尊」は、私の世俗の知恵では分からないわけです。
私たち人間は、そういう聖性と世俗の知恵と両方があります。しかし、いつの間にか聖の部分を遠ざけて世俗の中でのことだけに埋没してしまうと、誰かを傷つけながら、自分で自分を傷つけてしまっているような進み方であっても、それを見ないようにしながら、「仕方ない」として進んで行かざるを得ないという状況になってしまうのです。
できた者だけが評価されるのであって、できない者に価値がないというのは世俗の価値観です。世俗空間がだめで聖空間が大事だということではなく、その世俗の価値観を超えた仏教に教えてもらいながら、支えてもらいながら、世俗空間の中に身を置いて、苦悩を抱えて生きていける世界が開かれてくるのだと思います。
【終】