2020年07月27日
Category 法話
お寺や仏像に興味あるけど、仏教の考え方となるとなぁ。宗教ってなんか近寄りがたいような感じがするけど。仏教徒!?と言われると困るけど、でも墓参りをしているし…こんなことを思ったことはありませんか?
知らなくても生活には困らないけど、その教えが人々を支え、2500年以上確かに伝えてられてきた仏教。身近に感じる仏教のギモンから「そもそも仏教とは何か」を考える超入門講座「人生にイキる仏教ー大人の寺子屋講座」。
この抄録は第2回「「お釈迦さまはどんな人だったの?-『生きがい』と仏教」」の抄録⑥です。
「生きがいがありますか」と問われると、私たちは、仕事や家族や生活、趣味、色々なことがやれるなどの要素を見て、「生きがい」があるかないかを考えると思います。でもそれで生きがいを判断するならば、その「生きがい」はいずれ無くなるということではないでしょうか。
例えば、仕事が「生きがい」であれば、定年後に仕事がなくなって「生きがい」がなくなるということでしょう。あるいは、家族が「生きがい」なら家族がいなくなった途端に「生きがい」を失うのでしょう。何かをする、何かがあるということが「生きがい」であれば、これは「生きがい」を失っていくしかない人生です。老病死は、何かをする、誰かといるということをすべて失っていく出来事です。その中で「生きがい」を失って、生きる意味を見出せない、生きるに価しない人生と思ってしまうことが私たちに起こる。
ではどう生きていくのか。仏教は皆さんに問いかけています。あなた自身は、自分のいのちを生きるに値しないいのちとして受け止めてしまうのですか。それとも、そのいのちを大切なものとして最期まで尽くしていきますかと。
ご臨終という言葉がありますが、大体どなたかが亡くなるときに「ご臨終です」とお医者さんが言う言葉というイメージですね。ですが言葉の意味は、臨終はいのちの終わり、死に臨むということです。死ぬ前ですね。でもこれは先々の話ではなく、今、次の瞬間死ぬかどうか分からないいのちを私たちは生きているのです。ですからいつでも臨終となりうるのです。そのようないつ終わらんとも限らない臨終のいのちを、私は最期の最期まで満足して生きることができるのか。そこでは「生きがい」というのは何かをすることではなく、私を生きることが「生きがい」になるかという問題なのです。なぜなら臨終はもう何もできないからです。そこから何かをして良くなろうということはもうできないのが臨終です。
私たちは、ああなれば、こうなれば、あの人みたにと言いながら、現在の、自分の「生きがい」を見失っていくのです。ああなれば、こうなればというのは必ず未来です。満足するかもしれない未来に向かって、一生懸命現在の時を消費しているのです。そこに人生を生きる空しさがあるのではないでしょうか。どんな生き方であろうとも、どんな状態でも「私でよかった」と言えないというのは悲しいことです。
老病死に代表されるように、生きることの困難さは様々にあります。しかし、その事実を通して私たちが生まれたこと、私があること、私であることに悔いや苦しさを感じていくとするならば、どこまでも空しく過ぎていくしかないでしょう。それに対して仏教は、その私の生を受け止めていく。私が私として生まれたということを受け止めていく。煩悩や誤った認識ではなく、正しく私を認識するということが、仏教の大事な教えなのです。
私なりに表現しますと、「私との和解」、「自己との和解」ということを仏教は教えていると思います。私は、物心が付いたときからコンプレックスがありました。自分が駄目だと認識することは、成長の過程では大事なことですが、いつでも自分が満足な存在ではない。そのように自分を見ることはいつも苦しいです。
私にとって仏教は、他人と比較することではなく、私であることが私にとってうれしいことなのだということを教えてくれました。それで何か変わったわけではありません。けれども、私は、「私を受け止めていく」ことを教わって、そしてその教えを様々な人と共有していく役目をいただいているというところに、自分自身を本当にありがたく思うし、それが別にできなくなっても、できていても、どちらでも私という存在を受け止めていく道を教えてくれています。
「私を生きる」というものが、人間にとって必要な「生きがい」ではないかというのが仏教からの一つのメッセージです。