終活
明るい終活(2)
法話「明るい終活」
2018年12月16日
講師:竹部俊惠 氏(富山県・妙蓮寺住職)
身が知らせてくれる
私の友人に、5年程前に奥さんを亡くされた方がいます。彼は一人で生活を送っていますが、奥様の死ということや、市民病院の院長先生が紹介された「幸せ」「孤独」ということのアンケート結果を通して、これまで彼は生きることだけ考えてきたが、初めて「死ぬことと生きること」の両方を考え始めたように私は感じました。余裕を持て余して、知識的興味が起こったということではなく、すでにわが身に起こったことが、理解や理屈を超えて私に知らせてくることがあると感じたのでしょう。体解(たいげ)です。身が知らせてくるということです。
この「明るい終活」というのも、楽しくという意味ではありません。お経では、「明か」という文字とは別に、はっきりさせるという意味で「諦か」(あきらか)という文字が使われます。つまり、“この先の話”ではなく、「今生きている。そして、死んでいく」ことを諦かにするという意味として捉えることができます。彼には、「死んだ後に苦のない極楽浄土へ行くために今、お念仏するのか」という率直な問いが起こったのです。そして、彼は私にこう語ってくれました。
「浄土真宗の土壌の中にある地と言われながら、また『極楽』という言葉も使っていながらも、多くの高齢者たちが、自らの人間関係を絶っていくこの現実は地獄だ。そして、自分の家族や親族、“私の関係者の幸せだけを願う”から、孤独死が起こるのではないかと何となく思った」と。
浄土真宗の終活
以前、石川県松任市(現白山市)に浅田正作という方がおられました。妙好人(みょうこうにん)と呼ばれるような方で、様々な念仏の詩を書いておられる中で『念仏詩集・骨道を行く』という詩集を残されております。その中にこういう言葉があります。
年取って面倒なものになったと言うが 面倒なものが年取ったがやわい
年を重ねることは、善悪のものの見方から言えば、悪になってしまいます。自分の思い通りにならない面倒なことばかりが増幅するのですから、みんな悪です。しかし、面倒なものが年を取ったということは、年を取ったことで「もともと面倒なものを抱えた私だった」と気づかされていくのでしょう。
かくいう私も、89歳の母親がおり年相応の衰え方をしています。病院に行くときは、杖をついたりマスクをしたりと言っても聞く耳を持ちません。マスクをすると病人のように思われ、杖を使うと老人のように思われると言うのです。プライドが許さないわけですね。そして、人の世話になることは、あくまでも善悪の世界の中で考えているものですから、悪いことだと思っているのです。
浅田さんはこんな詩も作っておられます。
自分が可愛い、ただそれだけのことで生きていた、
それが深い悲しみとなったとき、ちがった世界がひらけて来た
自分がこころ清らかに、穏やかにしていたら本当の教えが聞こえてくるということではなく、むしろ穏やかではない時、つまり問題だらけの生活の場こそが、私自身を知らされてくる場所だったと言わざるを得ないようなはたらきが、仏の願いのほうから教えてくれるのです。「私」という現実は、私の力だけではどうにもなりません。しかし、そのどうにもならない事実から「いつでもない今、どこでもないここ、誰でもない私」が知らされたと頂けるのでしょう。正しくそれが、この現実の中で浄土の真(まこと)を宗(むね)とするという教えに出遇わせていただいていることだと思うのです。
「終活」は、まだ『広辞苑』にはない言葉です。ただ、すでにその中身は、活動としてエンディングノートを書いたり、自分の入るお棺を選ぶなど「死後の準備」ということになっていると思います。しかし、死ぬための準備に留まらず、今ここに生きていることと死んでいくことがつながり、そして“このこと一つ”という眼を見出す生活が「浄土真宗の終活」になるのではないでしょうか。
知らされてくる幸せという世界感
自分の思いを中心にして生きようとしても必ず行き詰まります。健康も、家族も、経済的な支えも、自分が幸せになるための一つのファクターに過ぎません。いずれ無くなっていきます。と同時に私たちのこのいただいた“いのち”の遺伝子的な要素は、「老・病・死」が必ず入っています。老病死の自覚を通して、最後の最後まで“このこと一つ”に呼び覚まされます。それは、様々な事実と様々な人との出会いの中で“知らされる”のです。それまでの「この手につかんで幸せになった」と言っていたものとは違う「知らされてくる幸せ感」であります。浅田正作さんの詩はまさに、この世界感を味わわれたのではないかと思うのです。それが、阿弥陀如来の「気づきなさい」というはたらきであり、“本願力の呼び声”なのではないでしょうか。
いくら本物の教えに遇っていると思っていても、逆にその教えに遇っていない自分が知らされてくることを通して教えに遇っていくのが、仏法を聞き続ける生活です。教えに出遇って完成されていく私ではなく、教えに頷けない私がここにいるということを教えられてくれるのです。
老いることによる孤独や幸せの充足度の問題は、日本の過疎に住む人だけの特別な話ではありません。今、全国的に「終活」というかたちで、「老い」ということを通してそのことに対する問題提起がされているのだと思います。
人間がどこで生きようが、深い闇を持ちつつ、その闇の中から立ち上がって私に伝えてくださっていることがある。そのことをご一緒に、南無阿弥陀仏の教えとして聞かせていただければと思い「明るい終活」という題でお話しをさせていただきました。
竹部俊惠 (たけべ・しゅんえ)
富山県・真宗大谷派妙蓮寺住職