サンガコラム
目をつむれば鳥の声
癖というほどではないが、最近出先などで時間が空くとすることがある。しばらく立ち止まって目をつむり耳だけを澄ます。そうすると周りから意外な音や声が聞こえてくる。
最初たまたま、散歩コースの運動公園でそれをしてみたところ、予断と予測はみごとに外れた。都心で雑木林があるとはいえ、すぐ横を幹線道路が走っているくらいだから、自動車音とビル建設工事音以外はあまり聞こえないだろうとひそかに思っていた。ところがさにあらず。最も鮮やかに聞こえてきたのは鳥たちの鳴き声だった。
運動場を駆け回るサッカー選手たちの声もなんだかくぐもって聞こえ、明瞭ではない。自動車音や建設音は快適でない通奏低音だ。その点、人の声(つまり言葉)として比較的聞き取りやすいのは、芝生に遊ぶ園児たちの歓声くらいか。圧倒的にクリアに聞こえるのが鳥たちの澄んだ鳴き声だった。四方八方から聞こえてくる。
ただし鳥の種類に疎い私には、カラスとスズメの鳴き声くらいしか分からぬながら、それでも10種類ほどは互いに区別して聞くことができる。そんなわけで電車、ビル内、屋上などいろんな場所でも試してみる。もちろん電車やビル内では鳥の声は聞こえない。しかし人の声が溢れているわけでもない。最も多く聞かれるのは交通音や電子音、信号音、工事音などだ。人の声ではなく、人の作るさまざまな雑音。
たったこれだけのことから何か結論めいたことをいうのは全くの無意味と十分承知しつつ、それでも夢想する。人の声は目立たないが、人の作る騒音は喧しい。その点、鳥の声は澄んでいる。ひょっとすると自然に負荷ばかりをかける人類に、将来取って代わるものが現れるとすれば、それは哺乳類よりも進化史的に新参の鳥類からかもしれないと。
稲垣真澄(フリージャーナリスト)
学校で「疾風怒濤」という言葉を教わった。妙に「そうか」とうなずいた。友だち同士で習いたてのこの言葉を振り回し、いい気になっていた。十代の終わりごろで、意気軒昂だった。
半世紀以上たって、いきなり疾風怒濤の中に投げ込まれた。一昨年以来、未知の病気がまん延し、世界中が嵐の中を航海している様相になっている。いつ横波に襲われて、生活という船が転覆するか知れない。
若いころの無鉄砲さも影を潜め、世渡りの術も少しはおぼえ、「こんなものか」と自分と折り合いをつけたと思っていた矢先、そのような世間知がまったく間に合わない事態に直面した。毎日毎日が「きょうはどうするか」の連続だった。
理不尽だが、現実だから、みなで知恵を出し合って、世界的規模のこの困難を乗り越えていかなければならない。
昔読んだ柴田翔の『されど われらが日々―』の終章の言葉を思い出す。
時代が違うから違う困難ではあったけれども︑困難があるという点では同じだった。(略)だが、私たちの中にも、時代の困難から抜け出し、新しい生活へ勇敢に進み出そうとした人がいたのだ。
自分でなくてもいい。自分たちの中から明日への希望をもって、あゆみ出す人のいること、その姿がみなの希望になる。
本願寺第8代の蓮如(1415 〜1499)は、宗祖親鸞の命日を「明日」と書いている。戦国乱世のただ中で、死という人生の総括の日を明日への出発と受け止めた感性はすばらしい。